10.30.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第2話  year1982 – そしてTsubaki Houseへ(増田さんの思い出)

自分史 第1話 に引き続き、Tsubaki Ball(玉椿)を去ることになった所からの話を続けます。次に登場する恩師は当時Tsubaki House店長だった増田さん。

実はこの - 第2話  はそこから書く予定だった。しかし前回の「自分史 - 第1話  」を公開した翌日の朝、増田さんが亡くなった。61歳。ショックだ。早すぎる。当然まだまだ逝く歳じゃないし、昨年、増田さんの還暦祝いに駆けつけた時は元気な姿で、久々の再会を果たしたばかりだった。「なに?今湘南に住んでるの?じゃあさ、中間の横浜あたりでメシでも食おうよ」なんて話をしてくれてたのに、残念でならない。すでに具合は悪かったらしいのだが、そんなこと微塵も感じさせない気丈さでこの1年間白血病と戦っていたのだ。
このブログ、もっと早く書いておけば良かった。自分の感謝の気持ちを改めて読んでもらいたかった。が、間に合わなかった。取り急ぎ明日のお通夜には参列するが、ご冥福を祈るばかりである。

増田さんは自分がTsubaki House でDJ見習い修行してる時にお世話になっていた時の店長だ。後に自分がTsubaki Ballを去ることになった時、救っていただいた恩人でもある。

見習い時代、相棒のBilly北村とよく話してたのは「DJなんて、いつまでもやってられないよな。俺は25歳になったら辞めるぜ。俺もそう思ってる」なんて、ふたりの間では25歳まで目いっぱいやって燃え尽き、それから第二の人生を歩む予定でいた。北村はデザイナーに、俺は人脈を作りバンド活動を再開させることを目指していた。(※北村は後にデザイナーとなり、自らのブランド「Billy」を立ち上げラフォーレやビームスなどで展開するのだが・・・)
それともうひとつの理由もあった。それはDJのほとんどが短命で終わることを聞かされていたからだ。辞めざるを得なくなった先輩DJの悲惨な末路も度々聞かされていた。そんなこともあり、ふたりは職を失う前に自ら辞める美学を語っていたのだ。しかしだ。これは若僧のただの戯言でアマちゃんだったことに他ならない。だってこの時、ふたりはまだ正式なDJにもなってなかったからだ(笑)

そんなある日、足かけでDJを目指している風に見えたのか、増田さんに言われた。
「お前さ、自分が目指してるものがあるなら片手間にやってたら成功しないぞ。なにをやるのかひとつに決めて、全力で、常に背水の陣でやらないとこの業界では生きていけないからさ」と言われた。ドッキとした。今こうやって25歳どころか、この歳までDJを続けているのは、この言葉が大きく、常に自分の頭の中にあるからなのかもしれない。

増田さん自身も元々はヤンちゃで歌舞伎町の街を893屋さんをもろともせず肩で風切って歩いてたような人物だったそうなのだが、それが、佐藤さんが築いたツバキハウスを引き継ぎ、自分の色でまた新たなツバキハウスを作る為に奔走する仕事人となり、その後、死去するまで数々の店舗をプロデュースしてきた。その言葉は、その経歴が全てを証明してる。

そして、ここから前回のTsubaki Ballの改装後の話の続きだ。
1982年の初夏くらいだったと思うんだが、華々しくリニューアルオープンしていた。ピカピカの内装で、あの毎夜の狂乱とディープでカオスな世界観を封印したかのような、同じ名前ではあるが全く別のナイトクラブとして生まれ変わっていた。
佐藤さんの方も伝説となった旧Tsubaki Ballを全てブチ壊し、新たな伝説に挑む心持ちだったに違いない。改装して初めて足を踏み入れた時、その意気込みを感じた。

しかしそこには自分はいなかった。そんなある日、途方に暮れてフラッとTsubaki Houseに顔を出した時、暖かく迎えてくれたのは増田さんだった。「スズキ!(まだ身内ではそう呼ばれてた) お前、うちこいよ!ここならNew Waveもかけられるぞ」と誘っていただいたのだ。

しかし実はこの時、改装を期にTsubaki Ballを同じく退店してたサブマネージャーのウメちゃん(梅田俊明氏)という人物から「新しいクラブをオープンするから来てくれ」と誘われていたのだった。「ウメちゃん」とは、これまた後に伝説のディスコプロデユーサーになるのだが、Cleo、Tokio、NeoJapanesqueの立ち上げに参画し、その後、飯倉のプレステージ、オデオンさらにニューヨークに渡りクラブMARSを立ち上げ成功した人物だ。ミュージシャン、芸能人、プロ野球選手、お笑いタレントなど全てのジャンルの有名人に人気だった人物だ。
(ウメちゃんに関して興味ある人はブラザートムさんが語ってる記事があるのでご参照を。
https://matome.naver.jp/odai/2134906858564447101)

正直、増田さんのお誘いに迷った。迷ったのはどっちに行くかでは無く内状的なことでだ。行きたいのはTsubaki Houseに決まってる。当時はツバキハウスか玉椿(Tsubaki Ball)で週6日間DJをやってたから店長もDJもスタッフも毎日一緒にいる仲間であり、もはやファミリーみたいな感じだった。だからそこから抜けること自体が淋く、他に行けばアウェー感満載になることは目に見えてた。

改装後の玉椿には透さん(高橋透氏)、ノブちゃん、そして後にラリーハードが日本で最も信用するDJとなった故DJ SONEさん(2010年没)の3人のディスコサウンド(後のハウスミュージック)を得意とするDJがラインナップされており、ツバキハウスには移動になったマッチャン、Billy北村、その他もマーチンや火曜日ロンドンナイトの大貫憲章さん、日曜日ヘビメタナイトの伊藤政則さん、木曜日のゲストDJの日(後にロカビリーナイトになるが)など、DJは足りていた。つまり、このお誘いは増田さんの人情でお誘い頂いてる所が多分にあるような気がしてたからだ。だが、やはりそのお誘いは何物にも代えがたく、甘えさせていただいた。つまりTsubaki HouseでDJを続行することになったのだ。

ツバキハウスに関しては、自分が係る前の話はあまり詳しくはないが、70年代は元々ディスコサウンドがメインだったようだ。ディスコサウンドと言っても歌舞伎町のディスコでプレイされているようなものではなく、当時はニューヨークサウンドと呼ばれゲイ・デイスコで主にプレイされていたサウンドの類で、現在の日本の若手DJにも脈々と受け継がれているクラッシックディスコのことだ(もちろん当時はリアルタイム)。The Saintやラリー・レヴァンのParadise Garageなどでプレイされていた楽曲といえばわかりやすいだろうか?これらは自分が見習いの頃、徹底的に叩き込まれた楽曲群でもある。New Wave DJの自分がここら辺も詳しいのはそのせいだ。

その当時のDJは前述のマーチン・コレフ氏と故チアキさんが中心で、チアキさんは後にニューヨークでディスコ・レストラン「フジヤマ・ママ」をオープンさせた伝説のDJだ。このフジヤマ・ママでは透さんやDJ NORIさん中村直などニューヨークに渡ったDJがプレイしてた箱でもある。自分にとっては透さんのさらに師匠だから大師匠という所になるのだろうか?自分もニューヨークに行った際にはチアキさんの家におじゃまさせてもらったり、泊まる所を世話してもらったり、会員制のThe Sainに入れるようにしていただいたり、いろいろお世話になった思い出もある。

そして80年代に入ってからのツバキハウスは自分と同世代がイメージする通り、テクノ、Punk、ニューロマ、ファンカラティーノ、スカ、ダブ、レゲエなど、New Wave色の強い感じになってきてロンドンナイトが開催されるようになってからはさらに加速したような気がする。とは言えニューヨークサウンドも無くなったわけではなく、その辺はNYから帰ってきた透さんがしっかり引き継いでプレイしてた記憶がある。

今思うとこういう変遷は増田さんの意向が大きく係っていたように思う。
増田さんはまた、ライブアーチストの招聘にも積極的だった。いろいろ年代とかまでは忘れちゃったけど、ジョニー・サンダース、 ストレイ・キャッツ、キャバレー・ヴォルテール、ワイルド・スタイルのBusy BeeやグランドミキサーDSTなんかもやってた覚えがある。国内勢のライブではYMOやPLASTICS、THE MODS、東京ブラボーとか。中でも印象的だったのはラウンジ・リザーズのライブでキース・ヘイリングが一緒に来てライブペインティングした。(その数日後聞いた話によると、次の日オープン前に箱入りした北村たちが、イベントでのただの落書きだと思い、全部処分してしまったらしい。残っていれば、いかほどの価値だったのか?) あと、レゲエのASWAD。今だからこそ書けるが、ライブ前の控室からのモクモクが大変だった。当時のレゲエには割とつきものだったアレが馨しい匂いを出してフロアに充満してしまった。ツバキは決して狭い箱ではなかった。今で言うと渋谷Contactのメインフロアとバーのフロアの壁をぶち抜いてひとつの空間にしたくらいのキャパだ(もっと広いかな?)それが入ったとたんにそれとわかる匂いで。みんなであわてて開かない窓を無理やりこじ開けて、うちはでパタパタして匂いを逃がした。もちろん無駄な抵抗であった(笑) あとイベントも多かった。ニューロマナイト、サイケデリックナイトとか?
それと服飾関係のお客さん、常連、専門学生なども多かったから、ファッションコンテストとかもやった。優勝は当時としては破格なロンドン旅行。優勝したのはDJに成る前のヒロシ(藤原)だった。なにかとイベントは多かったが、DJ陣は出番が無くなるので、あまりウエルカムではなかったけど(笑

あと、増田さんはDJでもないのによく12インチを買ってきて、オープン前に「これ買ってきたんだけどさ、ちょっとかけてよ」といって、ふたりでDJブースにこもって試聴してたこともよくあった。予想通りカッコイイ曲だとあの強面(コワオモテ)の顔を緩め、ニヤッとして「いいねー」と。俺はその瞬間が好きだった。買ってくるものはNew Wave系が多かったと記憶してる。そのひとつにAfrika Bambaataa & Soulsonic ForceのPlanet Rockがあった。「なんですかこれ!? クラフトワーク?」と音を聴いて驚愕してた俺に「よくわかんないんだけど黒人がやってるらしいよ」とレコード屋が説明してたことを話してくれた。直感的にNew Waveじゃない何かが起こってることを感じた。そしてこの後、ダンスミュージックにまた新たな波が来る予感がしてならなかった。

そんな感じでTsubaki HouseでのDJ生活を始めてた矢先、ディスコ業界を震撼させる事件が起こる。「新宿歌舞伎町ディスコ殺人事件」だ。ディスコ殺人事件?
マスコミが作った酷いタイトルだ。これはディスコ内で起こった事件ではなく
ディスコで遊んでた中学生の女の子が二人、帰り道に車に乗った男にナンパされ千葉に連れて行かれて殺害された事件だ。いづれにして酷い事件で、犯人がわからず、いまだに未解決の事件でもある。

これによりディスコ自体が当局に目の敵にされるようになる。
当時も風営法で12時過ぎての営業はだめだったのだが、なんとなくどこも朝までやっていた。ところがこの事件以降12時すぎてもやってるところは厳しく取り締まられるようになった。ほとんどすべてのディスコが12時で閉店するという異常な事態になっていた。

ツバキハウスに移籍したばかりの自分にとっても大問題だった。ただでもDJの人数が足りてるのに12時に終わるのであれば、そんなにDJの数はいらないはずである。
当然、後から移籍した自分が出ていくのが順当である。それでも2、3か月は増田さんはなにも言わなかった。本社からDJ人件費を削るように言われないのだろうか?
自分も自ら出ていくことを切り出した方が良いのではないか?自分としては若いながらもバカな頭で考えていた。

そんなある日、増田さんがなんとも言えない複雑な顔つきで俺を呼んだ。
もうわかっていた。自分から切り出した。増田さんは、また朝までできるようになったら呼ぶから。とすまなそうな顔で言った。
思わぬ事件のとばっちりで、そうなってしまった。

そんな折、前述のウメちゃんに誘われてた例のクラブに入ったDJが、曲を知らなくて困ってるという話を関係者から聞いた。そのDJとは自分も知ってるやつで友人だった。元々DJではなく、Punkバンドのボーカルやってた男で、幅広く選曲してプレイするのは無理だった。その為、メインを張れるDJをまだ探していたのだった。

しかし、そこに入れば完全アウェーな感じでプレイしなきゃならないという躊躇があった。

しかし、そのウメちゃんと組んでいるグループがパシャクラブの一派だということが少ししてわかった。パシャクラブとは旧Tsubaki BallのスターDJ、ユイさんを引き抜いた元防衛庁の近くにあったクラブだった。
ということはユイさんも係るに違いないと思った。そして、そのクラブに確認しに行ってみた。ウメちゃんがフロントにいて、「おう、ちょうど良かった、これからユイちゃん来るからさ」とか言って、俺がTsubakiを辞めた情報をすでに知ってるかのように、
「当然ここに来るでしょ」的な口調で言った。やはりユイさんがかかわってる。

ほどなくしてユイさんが来て「DJいなくて困ってるんだよ」と言った。
そしてこれからまだあと2つクラブをオープンさせるんで、大変なんだよ。といっていた。
どうもその3つのクラブのDJの統括プロデュースをやることになったらしい。

そんな流れでユイさんがいるなら多少アウェー感も薄まるから、ひとまずやってみようと決心したのだった。

そのクラブの名前は通称「クレオ」飯倉片町交差点付近に在し、いい意味でも悪い意味でも悪名高き、CLEO PALAZZI PHARAOHの事だ。ここから当面この箱のレジデンツDJとしてプレイすることとなる。

余談だが、その後できる2つのクラブが、ユイさんを擁するTOKIO。そのさらに後にできるのがDJ WADAさん擁するNeo Japanesque。そういう流れだった。この3つのクラブが、改装後のTsubaki Ballへの包囲網を敷いてるような錯覚もあった。そんな事を少し感じていた。思い過ごしだったかもしれないが、現実的にお客や常連が被っていたからだ。

いずれにしても、このCLEO PALAZZI PHARAOH。小箱なんだが、自分がレジデンツになってからもの凄い勢いで加速し、店に入り切れないほどの行列をつくる様になる。
それはまた更なるカオスに巻きこまれていく序章にすぎなかった。

つづく







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