11.10.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第3話 狂気の沙汰 Cleo Palazzi Pharaoh

レジデンツDJを探していたCLEO PALAZZI PHARAOH(通称クレオ)を引き受けた所からの話し。

 第2話の最後の方で1982年当時はDJが足りなかった事を書いた。でも実際には当時も自称DJ、他称DJ(多少DJ)を含め沢山いたことはいた。ただしフロアコントロールできて一晩任せられる人は多くはなかった。

今の時代だと最低限、パソコンとソフトがあれば気軽にDJを始められるが、当時はターンテーブル、カートリッジ、ミキサーがそれぞれ高価だった。そしてなによりレコード自体が高かった。12インチシングルが1枚2000円の時代。尚且つ、いいネタを仕入れるには足しげく数件のレコード屋に通い廻る。今みたいに自宅に居ながらトラックデータをダウンロードし、150円~350円で簡単に仕入れる、というわけにはいかなかった。故に、ちゃんとしたDJになるのは相当ハードルが高かった。それらの経費を持ってくれるクラブに所属し、現場で経験を積む以外にスキルを上げる事は難しかったように思う。

自分は幸いにも短い期間に多くの時間をいただき、現場でたくさんのチャンスをもらって経験を積ませてもらった。そのおかげで早くに一端のDJになった。その後次々とオープンするクラブのレジデンツを受持つ事になる。その最初がクレオだ。クレオは新規オープン時と1984年の改装時の2回に分けてレジデンツをやった。

その後も少しの間やった記憶がある。ところどころ他のクラブに移った期間がある為、曖昧な記憶しかないが、覚えているのは新規オープン時と脱退したとき、改装して復帰した時。その期間だけ覚えている。その為、これから書く1983年の話しを挟んで前後してしまう所もあるけど、1982年~1984年のクレオについてメモしてみた。

1982年は新宿歌舞伎町ディスコ殺人事件をきっかけにほどんどのディスコ、クラブが午前0時閉店という事態に追い込まれていた。しかしこのクレオは当局の目のをかいくぐって朝8時とか9時とかまでやっていた。バー営業の許可だった為、深夜営業自体はOKなんだが、踊らせることはNGだった。風営法関係の当局対策は外に見張りを立て、偵察に来た場合は瞬時に照明を明るくし音をBGM程度にし、バーを装った。オープンしたてだったからみんな必死だったのだろう。

いい悪いは別として、そんなオペレーションの甲斐もあってか、特に週末などは深夜0時から行き場を失った踊り足りない人達が噂を聞きつけ、ドッと押し寄せた。入りきれずにエントランスは長蛇の列を成していた。

クレオにおいても自分は1日あたりの持ち時間が長かった。オープン初期はDJがひとりだった。
PM22時からAM8時まで。この頃は毎日プレイしてたので、流石に毎日10アワーズセットはキツイ。
その為、ユイさん、他誰か(誰だったか?忘れてしまった)がサポートに来てくれた。1983年にTOKIOがオープンしてからはそこから誰かが来て2時間くらいは途中やってもらった。1984年改装後はKIYOというDJがいてふたり体制でやった。

前半の早い時間ではあったがサポートが来てくれるおかげで徐々にインターバルも増え、休憩時間は遊びに来てくれた人達とコミュニケーション出来る楽しい時間にもなっていた。特にここは、TSUBAKI BALL(玉椿)同様、著名人も多く訪れていた。自分としては著名、無名、関係なく面白い人は面白いと思っていたが、注目されてる人物と交流し、そのオーラに触れるのは悪くはなかった。

デビッド・ボウイやジョン・ライドンなども来た。連れ出してハシゴして遊んだ。ボウイに関しては亡くなった時にFacebookでこの時のエピソードを書いたので省略させてもらうけど、ジョン・ライドンは友人のケニー(ケネス氏。後に横浜CIRCUSを彼の伯父と立ち上げた人物)がどこからか連れてきた。ちょうど休憩中だったので、自分がピストルズやPILをいかに好きだったか好きかを話し、最近好きな音楽についても聞いた。「最近なに聴いてるの?」ライドンは「マイケルジャクソンだ」と言った。倒れそうになった(笑) 
でもこれはギャグじゃなく真面目な回答だった。そして思い出した。以前玉椿にデヴィッド・バーン(当時はトーキングヘッズ)やマッドネスのメンバーが来た時にも同じ質問をしたが、MJとジェームス・ブラウンと答えていた。

この頃はMJがまだ「スリラー」を出す前、キングオブポップを名乗って派手なセルアウトをする前の話で、子供ボーカルから大人のソウルアーチストになった頃の話だ。つまりアルバム「オフ・ザ・ウォール」の事を指していた。NEW WAVEな連中からも、この頃のMJは一目置かれてた。(しかしその後、ビートイット、楽曲スリラーなどで、がっかりしたのは自分だけではなかったように思う)

それと印象的だったのはスティーヴィー・ワンダーさん。遊びに来て相当気に入ってくれたのか、音楽誌のインタビューで「東京での思い出は?」との問いに、「クレオというクラブが楽しかった。MIKといういいDJがいるから、チェックしてみて!」と答えていた。スタッフが持ってきた誌面を見てビックリした。(手前味噌な話しになってしまうのであまり人には話さなかったが、この時はスタッフ一同大喜びした)

クレオを訪れた彼は目は不自由ではあるものの、ミラーボールの光は見えるのか、終始ミラーボールを見ながら踊っていた。プレイ前に少し話した。彼は「俺の曲はかけないで!」と言っていた。多分、彼がクラブに来るとDJは彼の曲をプレイしたんだろうと察しはついてた。もっともジャンルが違うので、クレオでスティーヴィーの曲は元々プレイしていなかった。が、Third WorldのTry Jah Love (Stevie Wonderプロデュース作)の12インチはあった。本人が歌ってる訳じゃないからと、ギャグみたいにプレイしたら、歌いながら踊ってくれていた。個人的にはこの曲は嫌いだった(Third Worldは前身のInner Circle時代からポップなレゲエバンドだったがこれはやり過ぎと思ってた)

でもこの時だけは何故だか泣けてきた。

そんなこんなで、盛り上がってるべニューでレジデンツを張れてDJ冥利につきる状況ではあった。
しかし自分の中では何かが違っていた。それは自分が思い描く理想のクラブとは方向性が違っていたからだ。簡単に言うと、ツバキのようなスマートさが無いのだ。

クレオの実情は本当に狂ったクラブだった。まさに「ヤバイ」という言葉が適合する箱だった。こんなクラブが今の時代にあったら完全にアウトだ。今でこそ一部分は書けるが、今でも書けないこともたくさんある。そんな事もあり、ここでのプレイは精一杯やったが、自分はクレオがあまり好きではなかった。

それでも前半のゆるめのピークタイム、0時から3時くらいまでは著名人もいたりして、まだ安心して遊べる感はあった。しかし問題は後半だった。

この箱の本当の超ピークタイムは午前4時から。ここから客層も入れ替わり、超クラバーが続々と来る時間帯となる。そこからは朝遅くまで、もう終始ドロドロ&エンドレス、、普通の人は引いてしまう。誰もが楽しめるクラブではなくなってしまうのだ。

ある日、ファッションを山本寛斎でキメ、玉椿にもよく遊びに来ていた人気漫才コンビの片割れ(後に世界的にも評価される映画監督にもなった)B・T氏が数人を引き連れ、なぜか4時過ぎにクレオに入って来た。フロアの狂乱を見て、目をパチクリさせ固まってしまった。「オイ、行こう」と言って固まったまま体を180度回転し、たった30秒で出て行ってしまった。この人をもってしても引いてしまう世界観。もちろんコマネチも無しだ。

その光景とは、来るお客の半分は外国人で、目をギラギラ、或いはキラキラさせた海外からの遊び人がフロアの大半を占めた。そしてローカルジャパニーズも彼ら彼女らと同じようなDOPEな雰囲気を漂わせていた。

なにせ、その時間帯の最大の人気曲はGrandmaster Flash & Melle MelのWhite Linesだった。
それが全てを物語る(苦笑

この曲は他の箱でもそこそこは人気曲だったかもしれない。しかしクレオほどこれで盛り上がってるフロアを見た事がない。歌詞は非常に道徳的だ。悪い遊び人を説教してるかのごとく・・・なのだが、曲の勢いで、奨励している風にも聴こえる。どっちとも取れる微妙なリリックに極悪なベースラインがうねる。フロアのみんなは、良心の苛責をムネに踊ってたのか? より調子に乗って踊ってたのか? 今となっては分からない。全員が踊る曲。フロア占有率100%!
原曲はLiquid Liquidの「Cavern」でNew Waveにも通ずる所もあり、 確かにカッコいいトラックではあったが、、、。

このような有り様であったため、、4時以降はかなり気合いを入れてプレイをしなくてはならない時間帯でもあった。対するは筋金入りのクラウド。自分より歳上も多く、上から変なプレッシャーをかけられた。そして毎日最高のプレイを求められた。こんな所にいつまでもいたら死んでしまう。本当にそう思っていた。でもこのお客たちをプレイでやっつけたいと思うチャレンジャーな自分もいた。

目がギラギラの兄さん姉さん達を相手にしているうちにディープなフロアを作ることに目覚めた 。これだけは感謝だ。 そしてプレイにハマってしまえば楽しかった。この時間帯からの基本的な選曲はUK ROCKとNY系のガレージ、それとFUNKぽいNEW WAVE、FUNKぽいDISCO又はR&B、HIP HOPそこらへんを中心にした。(というより、そうなってしまったのだが)

本来は、まだ20歳を通過して何年も経っていない若僧だったから、若僧らしくTSUBAKIではOKだった軽めのNEW WAVEも多少はプレイしたかった。口直しにウルトラボックス、ヒューマンリーグ、デペッシュモード、ビサージ、OMDなどのエレクトロも挟んで。だが反応は薄く、次第にこういう曲からは遠ざかっていった。フロアに歩み寄り、自分が許せる範囲という事で、たどり着いたのがそれらのジャンルだった。

新旧関係なく悪そうな曲、不良ぽい曲、Sex,Drug and Rock'n'Rollな曲でディープな曲をチョイスした。この頃はまだまだクラブ・マナーのハウスやテクノなんて無い時代。「ディープ」と言っても歌も入ってるし踊れるROCKとなると多少ポップになる。家ではダークなNew Waveやミニマルミュージックを聴いていたが、DJプレイで使うワケにはいかない。ダンス向きでは無いのだから仕方ない。せいぜいマーク・スチュワートやエイドリアン・シャーウッドあたりがギリギリだった。なのでコンセプトは「DEEPなPOPS」とし、開き直ってそういう曲を探した。しかしアーチストが売れてくるとだんだんポップになっていってしまう。こっちとしてはそれは困ることで、自分がアンチポップスになったのは、そういう理由でだった。

例えばここで人気だったMarianne Faithfullとかで言えば初期のかわいい感じの曲ではなく「Why D'ya Do It?」みたいな曲。また、ROCKが中心だった為、自分では得意だったロングミックスも封印した。ミックス自体ほとんどしなかった。FUNKもディスコもHIP HOPも、ROCK扱いでプレイ。メロディと歌詞でストーリーを作るプレイにハマっていった。この頃の影響が今のDJプレイにも反映されていると自分でも思う。

1985年以降のクレオについてはわからない。覚えてない。三たび戻って少しの間やったような気もする。さらに1986以後は全くわからない。もう自分はいなかった。その後はMIDのモンチが関わっていたような、、ナンブ君がやってたのだけは覚えてる(モンチ、教えて!)

そして話しを1982年に戻す。この年も終わる年末ころ、玉椿のスタッフが「マーチンさんが話しがあるみたいよ」と言いってクレオに来た。BEEにいるから来てくれとの事だった。BEEとはクレオ から徒歩1分くらいの所にある会員制のディスコだ。近いので休憩時間に行ってみた。そこにマーチン(ツバキハウス、玉椿の統括DJプロデューサー)がいた。元ツバキハウスの花形スターDJだ。

「ここを改装して玉椿みたいなディスコにするから、戻って来い!」という内容だった。そのころ0時閉店を余儀なくされていた玉椿、ツバキハウスは苦戦していたに違いなかった。0時で音が止まってしまっては消化不良になってしまうのは当然だ。

かたや、クレオは深夜もやっていて盛り上がってる。そこに玉椿を退団した元サブマネージャーのウメちゃんと俺がいる。特に玉椿は近かったから複雑だったと思う。こっちも複雑な心境で心配だった。そうでなくても原宿モンクベリーズなどのオシャレ・レゲエクラブもオープンして、客人はそっちにも流れていた。(レゲエクラブといってもレゲエだけじゃなく、コアなNEW WAVEやHIP HOPなどもプレイされていた。DJはテッチャン。Tetsu Shiraishiだ。(現在は京都在住のDJ)Kazuもいた。ヒロシ(藤原)もやっていた。数年後タツオ(須永)も合流する)それとTOKIOやNEO JAPANESQUEのオープンも控えていた。TOKIOにはユイさんが、NEO JAPANESQUにはDJ WADAさんと当時DJ界の大御所ナリタさんが予定されており、どちらも強力だ。ツバキにしてみればなにか手を打たないとならない状況だったと思う。

そこで系列店のBEEをなんとかしようとしてたのかもしれない。BEEは会員制といっても、そのころはほとんど集客がなかった。以前はあったのかもしれないがよくわからない。なんとかしなきゃならない状況であったことは確かだ。

そんなことで、BEEをかつての玉椿のようにするのであれば、こんな願ったりなことはない。クレオは好きではなかったし、早く逃げ出したいと思ってたからだ。ただ、少しは惜しい気持ちもあるにはあった。絶頂期だったし、「DEEP POPS」も続けたい気持ちもあった。店長やスタッフもいい人たちで、すでに仲良くさせてもらっていたからだ。それを全て捨てて移籍する事に多少は悩んだ。しかし自分にとっては育てていただいたのはツバキ。血が濃いいのもツバキファミリーだ。
即答とは言い難いが、自分の口は「やります!」とすでに言っていた。

早速クレオを辞め、次の週にはBEEのDJとして迎え入れられた。初めてプレイする日。
この日のことは何故か鮮明に今でも覚えてる。希望や期待と不安が入り混じった記憶だからかもしれない。

BEEのドアを開け、階段を降りていくと店長がフロントで迎え入れてくれた。「来てくれて良かった!」と喜んでくれた。今後の展望を熱く語っていた。気合いの入った人だったが、気さくで面白い人だった。そんな感じで、まづはふたりでVIP席で話をした。
その時、スピーカーを覗き込んでサウンドチェクしている人が見えた。

それを見た気さくな店長の顔がゆがんだ。店長は急につっけんどんに、その人を指さし「あれ、今いるDJだから。なにやってんだ?あいつは.....」と苦々しく言った。
どうも仲がよろしくないようであった。店長は「まあちょっと変わったやつだけど、しばらくの間うまくやってよ」と言った。ひととおり話して「じゃあ、ここのDJ紹介するよ」と言ってDJブースまで連れてってもらった。

BEEのDJブースは高い所にあり、ハシゴで登ってブースに入る造りになっていた。
店長は「上にいるから、あとはよろしく!」と言って、紹介もしてもらえないままフロントに戻ってしまった。

仕方ないので、ひとりでハシゴを登った。上がると、薄暗く、屋根裏部屋みたいなDJブースになっていた。天井も低くDJも椅子に座ってやる感じだ。少し不安になった。まあでも改装するまでの間の我慢だと自分をなだめた。そして暗いブースの奥にターンテーブル、ミキサーがありその前に座ってタバコをくゆらせてるDJがかすかに見えた。暗くてあまり見えないがミラーボールの光が一定の速度で時々そのDJを照らしていた。

なんだか地獄の黙示録のカーツ大佐に会いに来た気分だった(笑

この店長と仲悪いというのはどういう事なんだ?たまたまこの日ケンカしてただけなのか?自分の頭の中はグルグル警戒し始めた。

だいたいDJと店長が仲悪いパターンは、①単純にウマが合わない。②単純にプレイが下手で客人をノセられない。③ポリシーが強すぎる。この3つのどれかだ。後からわかるのだが、このふたりの関係は③であった。自分も③に当てはまるので人の事は言えない・・・(笑

ブースに入った時ミックス中だったので、すぐには声をかけなかった。タバコをくゆらせていたDJはミックスが終わると、人の気配を感じたのか、こっちを振り返えり、「聞いてるよ。ヨロシク」と手を差し伸べてくれた。握手した。

この時まさか、8年後に日本のテクノシーンの創成期を共に築いていく同志になるとは思ってもみなかった。

店長からその人の名前は聞いていた。しかし現在のDJネームとは違う名前だった。多分この人の先輩や同期のDJは、そう呼んでいたのだろう。しかし後輩の自分には呼びにくい名前であった。
そこで、そのDJの人に苗字を聞いてみた。

すると「クドウ」と短く言った。

つづく