10.26.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第1話 year1981 - DJ志願からの1年間 (私の名前はミックではありません)

1980年までバンド組んでVo,Guiterをやってた。だがやっていくうちにメンバー間で方向性にズレがでてきた。音楽をやる以前に人間関係、様々な意見の違い、それを調整をしなくてはならず、だんだんに疲弊してしまった。いい関係を保ちながら続けられるバンドはほんのひとにぎり。自分のバンドはそこには当てはまらなかった。

そんな時、テレビの情報番組で新宿三光町のオシャレディスコの映像が流れた。過激なファションに身を包んだ人々がフロアを賑わし、DJがプレイしてる曲はTalking Heads の Born Under Punches。

このころの時代はPunkが沈静化しNew Waveへ移行してる時期。ジョニー・ロットンはジョン・ライドンになりPILを結成、The ClashはSandinista!をリリース、誰もが誰にも似てない音楽を目指していた。自分としてはそんな刺激的な音にハマってた時期で、Talking Headsがかかるディスコの映像を食い入るように見た。

当時はディスコと言えば、ソウル、R&Bやディスコサウンドがほとんどで、まだそこら辺の音にあまり興味もなく、ディスコ自体にも興味は無かったんだが、こういう音をプレイしてるディスコとなれば話は別だった。とにかく現場を生で見たくなりそのディスコに行くことに。テレビで写ったのは新宿のツバキハウスだったが、新しくできたばかりの姉妹店ツバキボールも気になり両方行こう、どっちに先に行こうか?迷ったあげく、まずは新しい方へ足を運んだ。

緊張しつつツバキボールに入った瞬間、そこには今までに見たことのない別世界の宴が繰り広げられていた。映画に出てきそうな外国人、個性的なファッションでキメる人たち、プライドの高そうなゲイの人たち、有名ミュージシャンや有名デザイナーなんかもいて、それまでは極たまに普通のディスコには行ったこともあったけど、ほとんどライブハウスしか出入りしてなかった自分にとってはカオスな人々を目撃し未知なる世界が広がっていた。

そんな中でその空間を司る「DJ」という存在に目が釘づけになった。そのDJはRock、New Wave、
エレクトロディスコ、Dub、レゲエを巧みに操り、ブース内で踊りまくるわ、クルクル回転するわ、そうかと思うとブースの後ろにあるシンセドラムをたたきまくっていた。それもSparksのTryouts for the Human RaceやTamiko Jones のCan't Live Without Your Loveプレイ中にだ。
DJブースの近くにいた常連さんぽい人に「あの人は?」ときくと「ユイちゃん。最高でしょ!?」なんてニコニコしながら言う。なんでも某人気グループのバックバンドでドラムをたたいていた人だということだった。(後に自分の恩人でもあり、多大な影響を受けた先輩となるんだが・・)

そうか、DJならひとりで音楽できるワケだ。自分の求めていたことを遂に見つけた瞬間だった。
もうここしかないと思った。その数日後、今思うとよくもヌケヌケと行けたと思うんだが、
なんの伝手もないのにツバキボールの営業前にDJやらせて欲しいという自家談判をしに乗り込んだ。受付けにキャッシャーの女の子がいて「DJやりたいんですが誰と話したら・・・」と聞くとキョトンとした顔で、「はあ・・・よくわかんないけどマネージャー呼んでくるね」と言われた。
(ちなみにその子の名はエイコ。後に故桑名正博氏の奥さんとなる。アンさんと別れた後のね。
さらに余談として、エイコと一緒に受付のバイトやってたのは、後に国民的ヒット曲「愛は勝つ」でブレイクしたKANちゃんだ)

ほどなくしてマネージャーを連れてきてくれて、「この人です」というとそのマネージャーは、
「君、DJやりたいの?でも募集とかはやってないんだよ。今人数足りてるし。でも空きが出るかもしれないから、それまでここでバイトしたらどう?その時がきたら俺が店長にかけあってあげるよ」と言われた。
なんだよ。店長じゃないとDJ採用の権限ないんじゃん。と思いつつも、最初に会ってしまったのがこの人だから仕方ない。信用して言われるまま次の週からカウンターに入ってグラスを洗いながら時を待った。

それは半年間に及ぶ期間だったが自分のDJ名がDJになる前から決まってしまったのも、その期間だった。DJにはそれぞれ本名の人もいれば、ニックネーム(芸名?)のDJもいることは知っていた。だから自分は将来、自分で決めたDJネームで呼ばれたいと思い、自分で決めた名前で自分のことを名乗っていた。

当時、日本は飛ぶ鳥を落とす勢いで国が繁栄していた。世界的なブランドとなったSONYやHONDAが勢いを増してたのもこのころで、そういう世界的な企業の名前にあやかって海外の人も覚えやすい名前にしたかった。そのころはまだバイクが好きでいろんなバイクに乗っていた。それで、DJ YAMAHA、DJ HONDA、DJ SUZUKIのどれかにしようと思い、その中からDJ SUZUKIを選んだ。
だからみんなも最初はSUZUKIと呼んでくれていた。

ところがある日、一緒にカウンターに入ってたコバという男が俺がグラスを洗う時に使ってたビニール製の白いエプロンに油性のマジックで「MIKI LOVE」と落書きしたのだった。「MIKI」とは当時一瞬だけつき合ってたミキという女の子の名前だ。俺は「ふざけるな!」といってあわてて雑巾で消したんだが、すべては消えず、MIKという文字だけが残ってしまった。
まあそれだけならいいかなと思ってそのままにし、そのエプロンを着てカウンターでグラス洗ったりお酒出したりしてたんだが、そのうち常連客や外国人からミック、ミク、ミッケなどと呼ばれるようになってしまっていた。

そうこうしてるうちに、ツバキボールのスターDJ、ユイさんが他のナイトクラブへ引き抜かれてしまい、3人いたDJがふたりになっていた。その二人とはイサムさんとマッチャン(松田高志氏)だ。
ユイさんが他に行ってしまうのはなんとも複雑な気持ちだった。できれば一緒にやりたかったしいろんなものを吸収したかったからだ。しかしそれはチャンスでもあった。そこで最初に出会ったマネージャーに相談してそろそろDJの話を店長に繋いでもらおうと思ったんだが、時を同じくしてそのマネージャーがずっと欠勤で、店に出て来なくなっていた。
どうしたんだろうと思って別のマネージャーに事情を聞いたら原宿にタコ焼き屋を開業したので辞めたとのことだった。どうなっちゃうんだ?俺は?と焦った。

じゃあ店長に直接と、、、今の感覚だと、そう思われるかもしれないが、相手は店長といっても佐藤さん(現エラ・インターナショナルの佐藤としひろ氏)だ。後にもトゥーリアやGLODをオープンさせるが、この当時でもすでに大スター。ツバキ両店の実質的プロデューサーで貫禄もあった。
最初の事情を知らなければ一介の若造のバイト君が直接話せる相手でもないし、話したところでNGの可能性は高かっただろう。

こうして途方に暮れながら半年すぎたころ、今度はイサムさんが本社にあがるという話で、いよいよDJ不足は目に見えていた。通常のディスコではこういう時にヘルプと呼ばれる臨時DJが他店から助っ人で来てやることが慣習となっていたが、ツバキ両店は、他のディスコとは、そもそもの選曲が全く違うのでそれは無理だった。そのためツバキハウスからサポートのDJが来て穴を埋める形だったんだが、そのツバキハウスもスターDJのマーチン(マーチンコレフ氏)がマネージメント及びDJ統括がメインになってて時おりプレイはするものの頭数には入れられず、さらにトキオさんや中村直も辞めていたので、実質的にニューヨーク帰りのトオルさん(高橋透氏)とノブちゃんしかいなかった。なんか大変だなとは思ったが、この状況は自分にとっては向かい風だった。

そこで意を決してツバキボールでバイトしてた理由を最初からイサムさんに話し相談に乗ってもらった。イサムさんはすぐに「わかった。俺が佐藤さんに話してやるよ」と言ってくれた。
そしていよいよ佐藤さんとの個人的な面会の機会を得る。熱意を伝えるためいろいろ熱い思いを用意して緊張の面談に向かったんだが、同席して頂いたイサムさんが「こいつDJやりたくてツバキボール入ったみたいなんだけど・・・」というと、あっけなく、「そう。じゃやってみれば」という返答を頂いた。なんだ?この懐の深さは?こんな簡単に話が通っていいのか?一瞬気が抜けた思いだったが、但し、使えなかったらクビということと、ずっとお客を踊らせなくていいから、ということを言われた。

ディスコでお客を踊らせなくていいとは?どういうこと?と思ったが、要は聴かせる時間を作れということだった。確かにツバキボールはフロアから客が一斉に引いてしまう時も多くあった。カッコイイんだけどこれ踊れないだろ?みたいな曲を挟んでくる。DJ外したな!と思ってたが、わざとやっていたことがこの時わかった。「聴かせるDJ」この感じは今だに自分のプレイにも大きく影響している。

そしていよいよDJ修業が始まる訳だが、同時期に修業してたのがビリー北村だ。この男、ケンカ早っさはDJ界一だった。DJ中に「ディスコかけてよ~」って言ってくる客に「そんなのかけるわけないだろ!」ってDJブースの窓越しに手を伸ばしてブッ飛ばしてた。その早さは恐らく若かりしの頃の後輩、タツオ(須永)やマサミ(牧野)以上だったかもしれない。まさに ビリー・ザ・キッド(笑)
この男と苦楽を共にした修業時代は過酷だったの一言に尽きる。17時入りの帰るのが朝6時。ずっと立ちっぱなし。先輩のプレイした曲を全曲ノートに記入。おまけに出された酒は全部飲まなきゃならない(笑)その後も付き合いやなんやらで睡眠時間は毎日4時間程度。今でも北村と会うとその時の話で、話は尽きない。「修行」つまり見習い期間は3か月だった。その期間は北村がツバキボールで自分はツバキハウスだった。しかしラッキーだったのは、そこで透さんのミックスを見ながらその技を盗むことができた。それからミックス命!というくらいミックスの練習をし、次第に上達し得意げになってた。

しかし個人的な問題としては自分のDJ名についてであった。(そこはこだわってたのかな?)
当時は毎日やってたからフライヤーなどない。ネットも当然まだない。DJ名なんて声かけて呼ぶ時だけだ。だが、そうであっても名前を売るには名前がないとだめだ。北村は後からビリーが頭についたが最初からキタムラだった。しかし俺は人によってSUZUKIとかMIK(ミック、ミッケ)とか両方呼ばれていた。佐藤さんも北村も透さんも大貫さんも最初は、「SUZUKI」と呼んでいた。だがお客からは引き続きMIK(ミック?)と呼ばれていて、それが次第に広がってしまっていた。

後に正式なDJになってしばらくしてから「お前いつからミックになったんだ?」と透さんに言われた。
しかし「はあ・・・」としか言いようがなかった。元彼女の名前が由来なんて、現彼女もいたし、口が裂けても言えなかった。それ故、36年以上我慢してて初めて明かすけど、実はこのDJ名は好きではないのだ。しかしどうすることもできず未だにそのままになってる。もっと早く手を打っておくべきだった。

せめてもの抵抗は1997年からUをつけてDJ MIKUにしたことだ。「ミック」と呼ばれたくない抵抗。
でも結局80年代を引き継いだのか?90年代までの人も「ミック」と今でも呼ぶ。だが2000年以降知り合った人からは「MIKU」と呼んでもらえる。この違いは?どっちも嫌だけど「ミック」は特になんか嫌だ。そう呼ばれるのは諦めるとしても、せめてSNSなどに文字で「ミックさん」とか書かないでもらいたい。そう願うばかりだ。

そういう事情で実質DJ MIKとなってしまったものの、見習いから3か月後には正式にツバキボールのDJとして採用されることとなった。だが、このころからDJの編成に異変が起こる。自分が正式採用されてツバキボールに移動してすぐさまマッチャンが体の不調で入院してしまったのだ。
つまり両店舗で4人しかDJが居ない状態。そのうちふたりは新人だ。

ツバキハウスの方はマーチンもいたし、曜日によってロンドンナイト(火曜日)では大貫さんやヘビメタナイト(日曜日)では伊藤 政則さんやBURRN!編集長の酒井 康さんがいたり、木曜日とかは高木完ちゃんやヒロシ(藤原)やワシダさんなんかも飛入りで回してたりしたからなんとかなってたけどTsubakiBallはマッチャンがいないとアウトな状態だった。

そこで透さんがツバキボールに移動になり自分と2人体制に。ツバキハウスはノブちゃんが残り北村と2人体制になった。ただこれはこれでかなりキツかった。2店舗で4人ということはひとりが休みの日は誰かが1日中ひとりでやらないといけないという事だ。まだ正式にDJになって2~3か月しかたってないのに、18時オープンから朝5時までひとりという日が週に1回あった。

今のクラブでは5Hours Setとか、それだけでコンテンツになりそうなものだが、新人にしてその倍以上の11Hours Setだ。今考えるとめちゃくちゃなんだが、これで相当きたえられたのは事実。何度も選曲でフロアを散らしてしまったり、ミックスで失敗したりで。さらにユイさんと比べられてしまうところもあったりで、新人にはきつい状況ではあった。

しかしDJブースに入ったら新人もへったくれもない。みんな入場料払って楽しみに来てる訳で。
特に常連さんは厳しかった。だが暖かくもあった。見守ってもらえた所もあったと思う。
自分はなんと幸運だったのかと思う。この時の状況があったから自信もついたし、ものすごい経験を積ませてもらったと思ってる。今では大感謝でしかない。すべて1981年のできごとだ。

そして年が変わりTsubakiBallは改装の準備段階に入る。だが、ここでまた異変が。NY視察から帰国した佐藤さんよりTsubakiBallはディスコサウンド専門のクラブにするというお達しが出た。当時の自分の選曲はNew Wave系が70%~80%。つまり、改装後はここにいられないことを意味していた。

この2年後に中村直と初めてNYのThe Saint に行くまではディスコサウンドの良さをわからなかった。Saint でヤラれてからはそこに今のテクノスタイルの原点があるわけだが、この時はまだパンクやロック的な要素の強い曲に傾倒してた。仮にこの時わかってたとしても、この時点でディスコサウンドのDJに転身することはあり得なかった。なぜなら常連のNew Wave好きの人たちがたくさんいたからだ。そんなこともあり、改装に入る前までは月曜日だけはNew Waveをプレイすることを許された。
そのため常連客やNew Wave好きな層のお客さんは月曜日に集中し、土曜日と同じくらいの集客数になっていた。だけどそれでも方針は変わることなく、改装後のツバキボールのDJ陣のリストには自分の名前は無かった。

つづく



















2 件のコメント:

  1. 音楽だけでなく生き様すらアナログからデジタルに変わっていった、その前夜という感じがしますね

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