8.20.2018

記憶メモ(自分史DJ編)- 第4話 ディスコ的なものとの戦い


1982年12月。年末の浮かれぎみの夜の街。六本木から東京タワー方面に向かって繋がる飯倉片町付近も深夜になると賑わいをみせていた。そしてその街角にひっそりとある会員制ディスコがTHE BEEだ。そしてこの時が初対面となったクドウさん(後のDJ K.U.D.O、フリースタイルの時はARTMAN) がそこのDJブースにいた。


第3話に引き続き、この頃の記憶をメモしてみた。

 クドウさんとは、お互い面識も無かった事もあり、最初はぎこちない会話をボツボツと交わす程度。クドウさんにしてみれば「なんだ?この小僧は?」と、、、。自分も店長とソリの合ってない感じのこの人を「どんな人なんだろ?」と、、、。それぞれの警戒心が交差する中、居心地の悪い空気がDJブースに漂っていた。

 しばらくは一緒にやっていかなくてはならないのだから、なんとか共通の話題を模索すべく、とりあえず、このBEE以前にやっていた箱の名前を聞いてみた。

 「ここの前はどこで?」と尋ねると「CLiMAX(クライマックス)」と言った。

「CLiMAX」とは材木町にあったディスコで、当時ツバキハウス、玉椿以外でニューウェイブがプレイされてた唯一のナイトクラブだったかもしれない。自分もしばしば遊びに行っていた。
(余談だが、材木町とは六本木と西麻布の中間あたりで、西麻布は霞町、ツバキハウスのあった新宿五丁目交差点あたりは三光町などと呼んでいた。今でもそう呼ぶのだろうか? 自分もタクシーなどで行き先を告げる時はそういった旧町名を言うのが粋だと思ってた。オトナの仲間入り気分になっていたのかもしれない・・・)

CLiMAXはDJブースが高い位置にあり、DJの顔はぼんやり見える程度。
フロアには、もみあげを鋭角に剃ったクラフトワーク風(日本ではYMO風)のテクノカットにy'sやコムデギャルソン等で決めた自分と同じような歳ごろのNew Wave好きの連中がVisageの「Moon Over Moscow」やUltravox の「Sleepwalk」などで踊っていた。
(女子も刈り上げが多数)

 遊びに行ってた時は誰がプレイしてたのかは分からなかったが、CLiMAXのDJは何人かいて、DJ K.U.D.O.とDJ K.U.D.O.がレジデンツDJだった。。。???  誤植ではない。つまり、ARTMANのクドウさんとメジャーフォースのクドウさんがレジデンツDJをやっていたからだ。重なってる期間は短かかったようだが、ARTMANのクドウさんがインドに旅立つ時、そのころ新人だったメジャーフォースのクドウさんにDJを託して旅立ったそうだ。もちろんまだメジャーフォースも設立されてない頃の話だ。

前にも書いたが当時はフライヤーもなければネットでの告知もない時代。DJ名は口頭で呼ばれるくらいなもので、表記されることは少なかった。80年代も中盤以降になるとやっとフライヤーや雑誌などでのDJ紹介でDJ名表記という事が必要になってきた。このお二方に関しても、そんな同時期の必要性に応じ、DJ表記を決めたと思われるのだが、クドウさんによると、両方ともドット(終止符)付きの表記DJ K.U.D.Oにしたのは偶然で、お互いにそう表記してたのは知らなかったとの事だ。

自分がBEEでしばらく一緒にやる事になったのはARTMANのクドウさんの方だ。CLiMAXでやってたという事は共通のNEW WAVE楽曲も多数プレイしていただろうし、そこに共有できる話題もあるだろう。しかし、それだけでは DJとしての信頼や安心感を獲得する事はできない。どうしたものだろう?

だがそれをアピールする機会はすぐに訪れた。時はちょうど年末のパーティーシーズン。その日はBEEにも貸切パーティーが早い時間に入っていた。

クドウさんがパーティー主催者と打合せして、DJブースに戻ってくると、主催者がリクエストした20曲を60分間のディスコタイムで全てプレイして欲しいとのお題だった。

「やってみる?」とクドウさん。

「いきなり俺?」とムチャ振りにも思えた。

しかし腕を見せる絶好のチャンスだ。
ただ、当時はレコードでプレイするしかない時代。特にディスコサウンドは12インチシングルがメイン。その多くが7分~8分の尺だ。20曲プレイするには一曲3分まで。こういう貸切パーティーの時以外はそんな短く短くミックスするような事はしない。だが当時のDJはこういう営業的な事も求められていた。
Cleo Parazziではほとんどミックスしないプレイで新境地を得ていた事もあり、ミックスプレイは玉椿以来だった。

リストアップされたディスコ曲は、いくら自分がニューウェーブDJだといっても、全て知ってる曲で、修行時代にミックスの練習した定番中の定番のヒット曲だった。曲の隅から隅まで覚えている。そんなに好きでもないのに耳にタコができるほど聴いてプレイしてたのを思い出した。そして頭の中で順番を決めていった。ダンスタイムが始まり、60分20曲を一気ににミックスした。自分でも驚くほど、上手くいった。

Chaka Khanの「What Cha' Gonna Do for Me」、Change の 「Paradise」、
Cheryl Lynn の「Shake It Up Tonight」に始まりKool & the Gang、Rick James、Earth, Wind & Fire、Sylvesterの「Do You Wanna Funk」、Limeの「Babe, We're Gonna Love Tonite」などだったと思う。何はともあれ、終わってなにより。やれやれ、という所だった。

ほっとして後ろを振り向くと、ブースの暗がりにクドウさんが座っていた。聴いててくれたようで、一言、「やるじゃん」と。

これをきっかけに、その夜はずいぶんと、いろんな事を話した。

6カ月インドを旅して、その間ほとんど下痢してた話しから「自分を安く売ってはいけない」という人生論、深い話しまで。フロアの音はミックステープをたれ流しにしたまま2、3時間は話しただろうか。消化試合のこのディスコ、遅い時間までお客がいるわけもない。もう終わりまでこのままだ。そしてBEEでは何故か最後にHolger Czukayの 「Persian Love」をかけて終わるという決め事があった。誰が決めたんだろ? 今さらだが、今度クドウさんに聞いてみよう。
しかしこれはデパートやスーパーでかかる「蛍の光」みたいで、毎日営業してたディスコにとっては、お客さんも含め全員が終了を認識できる良い決め事だと思った。

自分もこのBEEの後に、再び戻ったCleo Parazziで最後の曲をJoe Jacksonの「Breaking Us In Two」にした。これは自分がCleo辞めた後もしばらく引き継がれていた。

とにかくこの日はそういう流れで有意義な1日が「Persian Love」を最後に終わった。


、、、と思ったら外国人の女の子がDJブースによじ登ってきて、「コレ、オネガイシマシュ」と言って、曲の名前が書かれたコースターを出してきた。見ると、The Deer Hunter/ Robert De Niro と書いてあった。倒れそうになった(驚!)
もちろんデニーロが歌ったり演奏したりする訳もなく、そんな曲がある訳もない。
でもどの曲かはすぐわかった。 

当時のマスターピースな映画「ディアハンター」ベトナムに徴兵され、現地でベトコンに捕まって捕虜になり、いきなりロシアンルーレットをやらされる過酷な映画だ。ロバート・デニーロ、クリストファー・ウォーケン、、監督はマイケル・チミノ。冒頭のベトナムに行く前にみんなで踊ってた、あの曲のことだ。元The 4 SeasonsのFrankie Valliの「Can't Take My Eyes Off You」 
しかし彼女のリクエストはこの原曲ではない。なぜらならこの頃Boys Town Gangなるディスコ・ユニットがこれをカバーしてて大ヒットしていたからだ。ド派手なアレンジにドラマチック過ぎる展開。日本では一般の普通のディスコで大ヒットしていたが、ニューヨークではゲイディスコサウンドになるんだろうか?ディスコソングとディスコサウンドの中間くらいといった感じだろうか。でもアレンジや展開は秀逸で「プロの仕業」という出来のカバー曲だった。

このカバー曲の存在は知っていた。でも、もちろんプレイしたことは無い。
自分のキャラとして、どの顔してこの曲をプレイするんだ!という感じだ。
(恥ずかしいぜ。)
たまたまBEEのDJブースはフロアからDJがほとんど見えないので、まあいいんだが、それでも恥ずかった。プレイしてあげたらさっきの女の子は飛び跳ねるように踊ってた。

この曲自体をこんなに文字を割いて説明する必要はないのだが、この時のこと自体が(リクエストという制度)、ベニューとしてのディスコに反感を抱くようになり、後にアンチデイスコに発展するきっかけとなった。

それまで在籍してたツバキハウス、玉椿、Cleo Parazziにおいては、知らないお客から
リクエストされることは無かったからだ。

前にも書いたが、ツバキハウス同期のキタムラ(Billy北村)はリクエストする客をブースの窓越しにぶっ飛ばしてたし、先輩のマッチャン(松田高志氏)にいたっては「うるさい!あっちへお行き!」と言ってレコードスプレーを噴霧。リクエストする客はまるで害虫扱いだった(笑
酷い話だが、みんなそれだけプライドを持ってプレイしてたのだ。

ディスコ、クラブにはそのベニュー特有の空気を持ってる所もある。
一限で遊びに来たお客さんは、その空気がわからない為、このようなことも起こるのだろう。
リクエストらしきものがあったとしても常連や知り合い客が「今日はスペシャルズ頼むよ~」とか「ピストルズお願い!」とか「レゲエタイム楽しみにしてるよ!」とか、空気を読んでやんわりとプレイ前に言ってくるくらいで、それがプレイ中に、、「いきなり」というのは我々には耐えられないものだった。

しかし唯一、受け入れなければならないリクエストもあった。ツバキハウス、玉椿においてはベニューにとって重要な著名人、著名ミュージシャンなどをオモテナシするため、店長(プロデューサー)が直々に「すぐじゃなくていいから、あの曲かけてあげて」と頼まれることも、稀ではあるが、あるにはあった。もっとも、そういう感度の高い人が好きな曲であるわけだからトンデモないリクエストではない。もちろん店長(プロデューサー)もわかってる。普段も使ってるトラックだから問題はなかった。

しかし、それすらも拒否したDJがいた。それが若かりし頃のDJ WADAさんだ(笑

WADAさんは玉椿がオープンする前にあったキャステルに在籍していて、そのまま玉椿も引き続きやる予定だった。玉椿はツバキハウスの姉妹店。(当然オペレーションはツバキハウス軍団が運営することになるのだが) ツバキハウス同様にファッション業界を中心とした集客を基本に置いていた。
そして当時、そのファッション業界において絶大な人気を誇っていたのがGrace Jonesだった。店としてはそのファッション業界の重鎮のオモテナシとしてGrace Jonesをプレイして欲しかったのだろう、WADAさんにGrace Jonesの曲をプレイするよう指示を出した。
(Grace Jonesは、この当時はすでにSly & RobbyやBarry Reynolds等 Idjut Boysなども多分に影響を受けたはずのアーチスト達とアルバム「Warm Leatherette」を制作し発表している頃だった。個人的には、レゲエとNew Waveを折衷したような、このアルバムは好きだったし、このメンツでその後も制作された「Nightclubbing」や「Living My Life」や、さらにその後Trevor Hornがプロデュースして制作された「Slave To The Rhythm」までは素晴らしかったと思ってる。)

* Sly & Robby=レゲエテイストの独特なドラムとベース
 を演奏し様々なアーチスト作品をプロデュースするユニット。

* Barry Reynolds=レゲエチックなカッテングを得意とするギタリスト。

* Trevor Horn=The Bugglesの「ラジオ・スターの悲劇」の大ヒットとか、
 プログレバンドYesのJon Andersonの代役として加入とかで
 有名だったが、我々世代にとってはMalcolm McLarenの「Duck Rock」や
 「D'ya Like Scratchin'」のプロデューサーとして、そしてZTTレコーズの
   創始者にして、Art of Noise、Frankie Goes To Hollywood、Propaganda等を
   世に送り出し、シンセサンプリングワークステーション、フェアライトCMIを
   駆使したサウンドで、みんなをブッ飛ばしてたことが印象的。
   DJしてても他のレコードとは音の迫力が断然違ってて、ヤラレっ放しだった。

しかし、WADAさんが指示を受けた曲はアルバム「Warm Leatherette」からのものではなく、Grace Jonesのファーストアルバム「Portfolio(ポートフォリオ)」からエディット・ピアフの「La Vie En Rose」のカバー曲だったそうだ。

(Grace Jonesは「Warm Leatherette」をリリースする以前は、全曲バリバリのディスコサウンドで所謂ニューヨークサウンドと呼ばれるゲイディスコサウンドだった。
まさにゲイシーン、ファッションシーンの女王的な存在だった。
ツバキハウスではよく「I Need A Man」とか「Am I Ever Gonna Fall In Love In New York City」とかプレイされていた。だがNew Wave小僧だった自分にとっては、この手のサウンドは大の苦手で、これらがプレイされてる時間帯は退屈極まりない時間だった。)

 WADAさんが、ディスコサウンドが嫌いだったかどうかはわからないが、この時、この「La Vie En Rose」をプレイすることを拒否したそうだ。
先日WADAさんと一緒にプレイした時に、この当時の話を聞いたのだが、「あの時、La Vie En Roseはフロアの雰囲気に合わなくてね、、、自分も若かったし、、」と言っていた。

でもそれだけではないような気もする。
WADAさんはWADAさんでキャステルにプライドを持っていたのではないだろうか?
そしてキャステルのプロデューサーは岡田大貳さんだ。ツバキハウスの佐藤さんの盟友でもあり、最も影響を受けた人物とも言われてる。両人共オシャレ系なディスコではカリスマプロデューサーだった。DJ陣は自分は岡田さん派、自分は佐藤さん派などと勝手に決めていたが、そんな話もわからないでもない。

自分が係っているベニューには、みんな、様々な想いを持ってプレイしてたからだ。

とにかく、それで双方言い合いとなり、たった1日で玉椿を退団したそうだ。
「La Vie En Rose」は4つ打ちじゃないしラウンジミュージックとしてプレイすれば良かったのに、ナントもったいない!とも思うが、前にも書いたが、自分も玉椿の改装準備期間にNew Waveからディスコサウンド中心の方針変更に反逆し、玉椿から追放されたので、人の事は言えない(涙
(でもたった1日は無いですよ、WADAさん! 笑)

 この流れで補足しておくと、玉椿のオープニングDJは、故・チアキ氏(後にNYでDJバー&レストラン「フジヤマ・ママ」をオープン。高橋透氏の師匠)と伝説のスーパースターDJ、YUIさんとDJ AGEISHIさんと共にBYBLOSでレジデンツDJを務めていた、イサムさん(ISAMU KOBAYASHI)。この3人となり、翌年にはニューヨークへ戻ったチアキさん(チーコさん)が退団し、マッチャン(松田高志氏)が加入。同年YUIさんがパシャクラブに引き抜かれ、その2か月後イサムさんが本社ディレクターに転職。そしてその後を受けてツバキハウスからトオルさん(高橋透氏)と新人だったDJ SUZUKI、、いや、、後にDJ MIKという名前にされてしまった自分が加入。短期間にめまぐるしい変遷があった。しかし今思うとその間の1年間というのは今の10年間分くらいの濃さがあったように思う。何故だ?(多分毎日やってたからだと思う。)


だいぶ話は逸れたが、なんの話だったか?
そうだ、外国人の女の子のリクエストの事だ。話を戻すと、つまり80年代初期はまだDJが100%自分のカラーを打ち出して、プレイできるような状況では無かったという話だ。

自分の80年代はこういうディスコ的なものとの戦いでもあった。

そしてもうひとつ。それはこの「Can't Take My Eyes Off You」のようなディスコサウンドだ。Grace Jonesの初期作品もそうだが、元々あまり興味もなくハッキリ言って好きなジャンルではなかった。

玉椿時代一緒にやってた師匠のトオルさん(高橋透氏)は、NYのディスコサウンドを
良くプレイしていた。その時は、トオルさんたる者が、なんでこんなポップでイナタイ曲をかけ続けるのか?・・・・
全く理解できなかった。

だが、その嫌悪していたディスコサウンドのイメージを一変させる体験がこの後やってくる。

翌年ニューヨークに行った時に、現地で合流したDJの故・ナオ(中村 直)がどうしても行きたいというので、つきあいで行った大箱のゲイ・ディスコクラブでの体験のことだ。

大箱といっても半端じゃない。3000人のゲイの人達が踊ってるクラブで、ニューヨークサウンドの総本山ともいうべきクラブだ。
五階建てのビルの床を全部ぶち抜いた高い天井にプラネタリュウムのような
ライティング。DJはワンナイトワンDJ。午前0時にパーティーはスタートし、終わったのは昼の2時。DJは最後までひとりだった。

そして、ここでのニューヨーク・ディスコサウンドの洗礼が後々自分のDJスタイルに
大きく影響してくる。

その大箱ゲイ・ディスコクラブこそが
THE SAINTだった。

 つづく


Visage - Moon Over Moscow

 Ultravox - Sleepwalk

 Holger Czukay - Persian Love

 Joe Jackson - Breaking Us in Two

 Grace Jones - Private Life

 Grace Jones - Nipple To the Bottle

 Boys Town Gang - Can't take my eyes off you

11.10.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第3話 狂気の沙汰 Cleo Palazzi Pharaoh

レジデンツDJを探していたCLEO PALAZZI PHARAOH(通称クレオ)を引き受けた所からの話し。

 第2話の最後の方で1982年当時はDJが足りなかった事を書いた。でも実際には当時も自称DJ、他称DJ(多少DJ)を含め沢山いたことはいた。ただしフロアコントロールできて一晩任せられる人は多くはなかった。

今の時代だと最低限、パソコンとソフトがあれば気軽にDJを始められるが、当時はターンテーブル、カートリッジ、ミキサーがそれぞれ高価だった。そしてなによりレコード自体が高かった。12インチシングルが1枚2000円の時代。尚且つ、いいネタを仕入れるには足しげく数件のレコード屋に通い廻る。今みたいに自宅に居ながらトラックデータをダウンロードし、150円~350円で簡単に仕入れる、というわけにはいかなかった。故に、ちゃんとしたDJになるのは相当ハードルが高かった。それらの経費を持ってくれるクラブに所属し、現場で経験を積む以外にスキルを上げる事は難しかったように思う。

自分は幸いにも短い期間に多くの時間をいただき、現場でたくさんのチャンスをもらって経験を積ませてもらった。そのおかげで早くに一端のDJになった。その後次々とオープンするクラブのレジデンツを受持つ事になる。その最初がクレオだ。クレオは新規オープン時と1984年の改装時の2回に分けてレジデンツをやった。

その後も少しの間やった記憶がある。ところどころ他のクラブに移った期間がある為、曖昧な記憶しかないが、覚えているのは新規オープン時と脱退したとき、改装して復帰した時。その期間だけ覚えている。その為、これから書く1983年の話しを挟んで前後してしまう所もあるけど、1982年~1984年のクレオについてメモしてみた。

1982年は新宿歌舞伎町ディスコ殺人事件をきっかけにほどんどのディスコ、クラブが午前0時閉店という事態に追い込まれていた。しかしこのクレオは当局の目のをかいくぐって朝8時とか9時とかまでやっていた。バー営業の許可だった為、深夜営業自体はOKなんだが、踊らせることはNGだった。風営法関係の当局対策は外に見張りを立て、偵察に来た場合は瞬時に照明を明るくし音をBGM程度にし、バーを装った。オープンしたてだったからみんな必死だったのだろう。

いい悪いは別として、そんなオペレーションの甲斐もあってか、特に週末などは深夜0時から行き場を失った踊り足りない人達が噂を聞きつけ、ドッと押し寄せた。入りきれずにエントランスは長蛇の列を成していた。

クレオにおいても自分は1日あたりの持ち時間が長かった。オープン初期はDJがひとりだった。
PM22時からAM8時まで。この頃は毎日プレイしてたので、流石に毎日10アワーズセットはキツイ。
その為、ユイさん、他誰か(誰だったか?忘れてしまった)がサポートに来てくれた。1983年にTOKIOがオープンしてからはそこから誰かが来て2時間くらいは途中やってもらった。1984年改装後はKIYOというDJがいてふたり体制でやった。

前半の早い時間ではあったがサポートが来てくれるおかげで徐々にインターバルも増え、休憩時間は遊びに来てくれた人達とコミュニケーション出来る楽しい時間にもなっていた。特にここは、TSUBAKI BALL(玉椿)同様、著名人も多く訪れていた。自分としては著名、無名、関係なく面白い人は面白いと思っていたが、注目されてる人物と交流し、そのオーラに触れるのは悪くはなかった。

デビッド・ボウイやジョン・ライドンなども来た。連れ出してハシゴして遊んだ。ボウイに関しては亡くなった時にFacebookでこの時のエピソードを書いたので省略させてもらうけど、ジョン・ライドンは友人のケニー(ケネス氏。後に横浜CIRCUSを彼の伯父と立ち上げた人物)がどこからか連れてきた。ちょうど休憩中だったので、自分がピストルズやPILをいかに好きだったか好きかを話し、最近好きな音楽についても聞いた。「最近なに聴いてるの?」ライドンは「マイケルジャクソンだ」と言った。倒れそうになった(笑) 
でもこれはギャグじゃなく真面目な回答だった。そして思い出した。以前玉椿にデヴィッド・バーン(当時はトーキングヘッズ)やマッドネスのメンバーが来た時にも同じ質問をしたが、MJとジェームス・ブラウンと答えていた。

この頃はMJがまだ「スリラー」を出す前、キングオブポップを名乗って派手なセルアウトをする前の話で、子供ボーカルから大人のソウルアーチストになった頃の話だ。つまりアルバム「オフ・ザ・ウォール」の事を指していた。NEW WAVEな連中からも、この頃のMJは一目置かれてた。(しかしその後、ビートイット、楽曲スリラーなどで、がっかりしたのは自分だけではなかったように思う)

それと印象的だったのはスティーヴィー・ワンダーさん。遊びに来て相当気に入ってくれたのか、音楽誌のインタビューで「東京での思い出は?」との問いに、「クレオというクラブが楽しかった。MIKといういいDJがいるから、チェックしてみて!」と答えていた。スタッフが持ってきた誌面を見てビックリした。(手前味噌な話しになってしまうのであまり人には話さなかったが、この時はスタッフ一同大喜びした)

クレオを訪れた彼は目は不自由ではあるものの、ミラーボールの光は見えるのか、終始ミラーボールを見ながら踊っていた。プレイ前に少し話した。彼は「俺の曲はかけないで!」と言っていた。多分、彼がクラブに来るとDJは彼の曲をプレイしたんだろうと察しはついてた。もっともジャンルが違うので、クレオでスティーヴィーの曲は元々プレイしていなかった。が、Third WorldのTry Jah Love (Stevie Wonderプロデュース作)の12インチはあった。本人が歌ってる訳じゃないからと、ギャグみたいにプレイしたら、歌いながら踊ってくれていた。個人的にはこの曲は嫌いだった(Third Worldは前身のInner Circle時代からポップなレゲエバンドだったがこれはやり過ぎと思ってた)

でもこの時だけは何故だか泣けてきた。

そんなこんなで、盛り上がってるべニューでレジデンツを張れてDJ冥利につきる状況ではあった。
しかし自分の中では何かが違っていた。それは自分が思い描く理想のクラブとは方向性が違っていたからだ。簡単に言うと、ツバキのようなスマートさが無いのだ。

クレオの実情は本当に狂ったクラブだった。まさに「ヤバイ」という言葉が適合する箱だった。こんなクラブが今の時代にあったら完全にアウトだ。今でこそ一部分は書けるが、今でも書けないこともたくさんある。そんな事もあり、ここでのプレイは精一杯やったが、自分はクレオがあまり好きではなかった。

それでも前半のゆるめのピークタイム、0時から3時くらいまでは著名人もいたりして、まだ安心して遊べる感はあった。しかし問題は後半だった。

この箱の本当の超ピークタイムは午前4時から。ここから客層も入れ替わり、超クラバーが続々と来る時間帯となる。そこからは朝遅くまで、もう終始ドロドロ&エンドレス、、普通の人は引いてしまう。誰もが楽しめるクラブではなくなってしまうのだ。

ある日、ファッションを山本寛斎でキメ、玉椿にもよく遊びに来ていた人気漫才コンビの片割れ(後に世界的にも評価される映画監督にもなった)B・T氏が数人を引き連れ、なぜか4時過ぎにクレオに入って来た。フロアの狂乱を見て、目をパチクリさせ固まってしまった。「オイ、行こう」と言って固まったまま体を180度回転し、たった30秒で出て行ってしまった。この人をもってしても引いてしまう世界観。もちろんコマネチも無しだ。

その光景とは、来るお客の半分は外国人で、目をギラギラ、或いはキラキラさせた海外からの遊び人がフロアの大半を占めた。そしてローカルジャパニーズも彼ら彼女らと同じようなDOPEな雰囲気を漂わせていた。

なにせ、その時間帯の最大の人気曲はGrandmaster Flash & Melle MelのWhite Linesだった。
それが全てを物語る(苦笑

この曲は他の箱でもそこそこは人気曲だったかもしれない。しかしクレオほどこれで盛り上がってるフロアを見た事がない。歌詞は非常に道徳的だ。悪い遊び人を説教してるかのごとく・・・なのだが、曲の勢いで、奨励している風にも聴こえる。どっちとも取れる微妙なリリックに極悪なベースラインがうねる。フロアのみんなは、良心の苛責をムネに踊ってたのか? より調子に乗って踊ってたのか? 今となっては分からない。全員が踊る曲。フロア占有率100%!
原曲はLiquid Liquidの「Cavern」でNew Waveにも通ずる所もあり、 確かにカッコいいトラックではあったが、、、。

このような有り様であったため、、4時以降はかなり気合いを入れてプレイをしなくてはならない時間帯でもあった。対するは筋金入りのクラウド。自分より歳上も多く、上から変なプレッシャーをかけられた。そして毎日最高のプレイを求められた。こんな所にいつまでもいたら死んでしまう。本当にそう思っていた。でもこのお客たちをプレイでやっつけたいと思うチャレンジャーな自分もいた。

目がギラギラの兄さん姉さん達を相手にしているうちにディープなフロアを作ることに目覚めた 。これだけは感謝だ。 そしてプレイにハマってしまえば楽しかった。この時間帯からの基本的な選曲はUK ROCKとNY系のガレージ、それとFUNKぽいNEW WAVE、FUNKぽいDISCO又はR&B、HIP HOPそこらへんを中心にした。(というより、そうなってしまったのだが)

本来は、まだ20歳を通過して何年も経っていない若僧だったから、若僧らしくTSUBAKIではOKだった軽めのNEW WAVEも多少はプレイしたかった。口直しにウルトラボックス、ヒューマンリーグ、デペッシュモード、ビサージ、OMDなどのエレクトロも挟んで。だが反応は薄く、次第にこういう曲からは遠ざかっていった。フロアに歩み寄り、自分が許せる範囲という事で、たどり着いたのがそれらのジャンルだった。

新旧関係なく悪そうな曲、不良ぽい曲、Sex,Drug and Rock'n'Rollな曲でディープな曲をチョイスした。この頃はまだまだクラブ・マナーのハウスやテクノなんて無い時代。「ディープ」と言っても歌も入ってるし踊れるROCKとなると多少ポップになる。家ではダークなNew Waveやミニマルミュージックを聴いていたが、DJプレイで使うワケにはいかない。ダンス向きでは無いのだから仕方ない。せいぜいマーク・スチュワートやエイドリアン・シャーウッドあたりがギリギリだった。なのでコンセプトは「DEEPなPOPS」とし、開き直ってそういう曲を探した。しかしアーチストが売れてくるとだんだんポップになっていってしまう。こっちとしてはそれは困ることで、自分がアンチポップスになったのは、そういう理由でだった。

例えばここで人気だったMarianne Faithfullとかで言えば初期のかわいい感じの曲ではなく「Why D'ya Do It?」みたいな曲。また、ROCKが中心だった為、自分では得意だったロングミックスも封印した。ミックス自体ほとんどしなかった。FUNKもディスコもHIP HOPも、ROCK扱いでプレイ。メロディと歌詞でストーリーを作るプレイにハマっていった。この頃の影響が今のDJプレイにも反映されていると自分でも思う。

1985年以降のクレオについてはわからない。覚えてない。三たび戻って少しの間やったような気もする。さらに1986以後は全くわからない。もう自分はいなかった。その後はMIDのモンチが関わっていたような、、ナンブ君がやってたのだけは覚えてる(モンチ、教えて!)

そして話しを1982年に戻す。この年も終わる年末ころ、玉椿のスタッフが「マーチンさんが話しがあるみたいよ」と言いってクレオに来た。BEEにいるから来てくれとの事だった。BEEとはクレオ から徒歩1分くらいの所にある会員制のディスコだ。近いので休憩時間に行ってみた。そこにマーチン(ツバキハウス、玉椿の統括DJプロデューサー)がいた。元ツバキハウスの花形スターDJだ。

「ここを改装して玉椿みたいなディスコにするから、戻って来い!」という内容だった。そのころ0時閉店を余儀なくされていた玉椿、ツバキハウスは苦戦していたに違いなかった。0時で音が止まってしまっては消化不良になってしまうのは当然だ。

かたや、クレオは深夜もやっていて盛り上がってる。そこに玉椿を退団した元サブマネージャーのウメちゃんと俺がいる。特に玉椿は近かったから複雑だったと思う。こっちも複雑な心境で心配だった。そうでなくても原宿モンクベリーズなどのオシャレ・レゲエクラブもオープンして、客人はそっちにも流れていた。(レゲエクラブといってもレゲエだけじゃなく、コアなNEW WAVEやHIP HOPなどもプレイされていた。DJはテッチャン。Tetsu Shiraishiだ。(現在は京都在住のDJ)Kazuもいた。ヒロシ(藤原)もやっていた。数年後タツオ(須永)も合流する)それとTOKIOやNEO JAPANESQUEのオープンも控えていた。TOKIOにはユイさんが、NEO JAPANESQUにはDJ WADAさんと当時DJ界の大御所ナリタさんが予定されており、どちらも強力だ。ツバキにしてみればなにか手を打たないとならない状況だったと思う。

そこで系列店のBEEをなんとかしようとしてたのかもしれない。BEEは会員制といっても、そのころはほとんど集客がなかった。以前はあったのかもしれないがよくわからない。なんとかしなきゃならない状況であったことは確かだ。

そんなことで、BEEをかつての玉椿のようにするのであれば、こんな願ったりなことはない。クレオは好きではなかったし、早く逃げ出したいと思ってたからだ。ただ、少しは惜しい気持ちもあるにはあった。絶頂期だったし、「DEEP POPS」も続けたい気持ちもあった。店長やスタッフもいい人たちで、すでに仲良くさせてもらっていたからだ。それを全て捨てて移籍する事に多少は悩んだ。しかし自分にとっては育てていただいたのはツバキ。血が濃いいのもツバキファミリーだ。
即答とは言い難いが、自分の口は「やります!」とすでに言っていた。

早速クレオを辞め、次の週にはBEEのDJとして迎え入れられた。初めてプレイする日。
この日のことは何故か鮮明に今でも覚えてる。希望や期待と不安が入り混じった記憶だからかもしれない。

BEEのドアを開け、階段を降りていくと店長がフロントで迎え入れてくれた。「来てくれて良かった!」と喜んでくれた。今後の展望を熱く語っていた。気合いの入った人だったが、気さくで面白い人だった。そんな感じで、まづはふたりでVIP席で話をした。
その時、スピーカーを覗き込んでサウンドチェクしている人が見えた。

それを見た気さくな店長の顔がゆがんだ。店長は急につっけんどんに、その人を指さし「あれ、今いるDJだから。なにやってんだ?あいつは.....」と苦々しく言った。
どうも仲がよろしくないようであった。店長は「まあちょっと変わったやつだけど、しばらくの間うまくやってよ」と言った。ひととおり話して「じゃあ、ここのDJ紹介するよ」と言ってDJブースまで連れてってもらった。

BEEのDJブースは高い所にあり、ハシゴで登ってブースに入る造りになっていた。
店長は「上にいるから、あとはよろしく!」と言って、紹介もしてもらえないままフロントに戻ってしまった。

仕方ないので、ひとりでハシゴを登った。上がると、薄暗く、屋根裏部屋みたいなDJブースになっていた。天井も低くDJも椅子に座ってやる感じだ。少し不安になった。まあでも改装するまでの間の我慢だと自分をなだめた。そして暗いブースの奥にターンテーブル、ミキサーがありその前に座ってタバコをくゆらせてるDJがかすかに見えた。暗くてあまり見えないがミラーボールの光が一定の速度で時々そのDJを照らしていた。

なんだか地獄の黙示録のカーツ大佐に会いに来た気分だった(笑

この店長と仲悪いというのはどういう事なんだ?たまたまこの日ケンカしてただけなのか?自分の頭の中はグルグル警戒し始めた。

だいたいDJと店長が仲悪いパターンは、①単純にウマが合わない。②単純にプレイが下手で客人をノセられない。③ポリシーが強すぎる。この3つのどれかだ。後からわかるのだが、このふたりの関係は③であった。自分も③に当てはまるので人の事は言えない・・・(笑

ブースに入った時ミックス中だったので、すぐには声をかけなかった。タバコをくゆらせていたDJはミックスが終わると、人の気配を感じたのか、こっちを振り返えり、「聞いてるよ。ヨロシク」と手を差し伸べてくれた。握手した。

この時まさか、8年後に日本のテクノシーンの創成期を共に築いていく同志になるとは思ってもみなかった。

店長からその人の名前は聞いていた。しかし現在のDJネームとは違う名前だった。多分この人の先輩や同期のDJは、そう呼んでいたのだろう。しかし後輩の自分には呼びにくい名前であった。
そこで、そのDJの人に苗字を聞いてみた。

すると「クドウ」と短く言った。

つづく


10.30.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第2話  year1982 – そしてTsubaki Houseへ(増田さんの思い出)

自分史 第1話 に引き続き、Tsubaki Ball(玉椿)を去ることになった所からの話を続けます。次に登場する恩師は当時Tsubaki House店長だった増田さん。

実はこの - 第2話  はそこから書く予定だった。しかし前回の「自分史 - 第1話  」を公開した翌日の朝、増田さんが亡くなった。61歳。ショックだ。早すぎる。当然まだまだ逝く歳じゃないし、昨年、増田さんの還暦祝いに駆けつけた時は元気な姿で、久々の再会を果たしたばかりだった。「なに?今湘南に住んでるの?じゃあさ、中間の横浜あたりでメシでも食おうよ」なんて話をしてくれてたのに、残念でならない。すでに具合は悪かったらしいのだが、そんなこと微塵も感じさせない気丈さでこの1年間白血病と戦っていたのだ。
このブログ、もっと早く書いておけば良かった。自分の感謝の気持ちを改めて読んでもらいたかった。が、間に合わなかった。取り急ぎ明日のお通夜には参列するが、ご冥福を祈るばかりである。

増田さんは自分がTsubaki House でDJ見習い修行してる時にお世話になっていた時の店長だ。後に自分がTsubaki Ballを去ることになった時、救っていただいた恩人でもある。

見習い時代、相棒のBilly北村とよく話してたのは「DJなんて、いつまでもやってられないよな。俺は25歳になったら辞めるぜ。俺もそう思ってる」なんて、ふたりの間では25歳まで目いっぱいやって燃え尽き、それから第二の人生を歩む予定でいた。北村はデザイナーに、俺は人脈を作りバンド活動を再開させることを目指していた。(※北村は後にデザイナーとなり、自らのブランド「Billy」を立ち上げラフォーレやビームスなどで展開するのだが・・・)
それともうひとつの理由もあった。それはDJのほとんどが短命で終わることを聞かされていたからだ。辞めざるを得なくなった先輩DJの悲惨な末路も度々聞かされていた。そんなこともあり、ふたりは職を失う前に自ら辞める美学を語っていたのだ。しかしだ。これは若僧のただの戯言でアマちゃんだったことに他ならない。だってこの時、ふたりはまだ正式なDJにもなってなかったからだ(笑)

そんなある日、足かけでDJを目指している風に見えたのか、増田さんに言われた。
「お前さ、自分が目指してるものがあるなら片手間にやってたら成功しないぞ。なにをやるのかひとつに決めて、全力で、常に背水の陣でやらないとこの業界では生きていけないからさ」と言われた。ドッキとした。今こうやって25歳どころか、この歳までDJを続けているのは、この言葉が大きく、常に自分の頭の中にあるからなのかもしれない。

増田さん自身も元々はヤンちゃで歌舞伎町の街を893屋さんをもろともせず肩で風切って歩いてたような人物だったそうなのだが、それが、佐藤さんが築いたツバキハウスを引き継ぎ、自分の色でまた新たなツバキハウスを作る為に奔走する仕事人となり、その後、死去するまで数々の店舗をプロデュースしてきた。その言葉は、その経歴が全てを証明してる。

そして、ここから前回のTsubaki Ballの改装後の話の続きだ。
1982年の初夏くらいだったと思うんだが、華々しくリニューアルオープンしていた。ピカピカの内装で、あの毎夜の狂乱とディープでカオスな世界観を封印したかのような、同じ名前ではあるが全く別のナイトクラブとして生まれ変わっていた。
佐藤さんの方も伝説となった旧Tsubaki Ballを全てブチ壊し、新たな伝説に挑む心持ちだったに違いない。改装して初めて足を踏み入れた時、その意気込みを感じた。

しかしそこには自分はいなかった。そんなある日、途方に暮れてフラッとTsubaki Houseに顔を出した時、暖かく迎えてくれたのは増田さんだった。「スズキ!(まだ身内ではそう呼ばれてた) お前、うちこいよ!ここならNew Waveもかけられるぞ」と誘っていただいたのだ。

しかし実はこの時、改装を期にTsubaki Ballを同じく退店してたサブマネージャーのウメちゃん(梅田俊明氏)という人物から「新しいクラブをオープンするから来てくれ」と誘われていたのだった。「ウメちゃん」とは、これまた後に伝説のディスコプロデユーサーになるのだが、Cleo、Tokio、NeoJapanesqueの立ち上げに参画し、その後、飯倉のプレステージ、オデオンさらにニューヨークに渡りクラブMARSを立ち上げ成功した人物だ。ミュージシャン、芸能人、プロ野球選手、お笑いタレントなど全てのジャンルの有名人に人気だった人物だ。
(ウメちゃんに関して興味ある人はブラザートムさんが語ってる記事があるのでご参照を。
https://matome.naver.jp/odai/2134906858564447101)

正直、増田さんのお誘いに迷った。迷ったのはどっちに行くかでは無く内状的なことでだ。行きたいのはTsubaki Houseに決まってる。当時はツバキハウスか玉椿(Tsubaki Ball)で週6日間DJをやってたから店長もDJもスタッフも毎日一緒にいる仲間であり、もはやファミリーみたいな感じだった。だからそこから抜けること自体が淋く、他に行けばアウェー感満載になることは目に見えてた。

改装後の玉椿には透さん(高橋透氏)、ノブちゃん、そして後にラリーハードが日本で最も信用するDJとなった故DJ SONEさん(2010年没)の3人のディスコサウンド(後のハウスミュージック)を得意とするDJがラインナップされており、ツバキハウスには移動になったマッチャン、Billy北村、その他もマーチンや火曜日ロンドンナイトの大貫憲章さん、日曜日ヘビメタナイトの伊藤政則さん、木曜日のゲストDJの日(後にロカビリーナイトになるが)など、DJは足りていた。つまり、このお誘いは増田さんの人情でお誘い頂いてる所が多分にあるような気がしてたからだ。だが、やはりそのお誘いは何物にも代えがたく、甘えさせていただいた。つまりTsubaki HouseでDJを続行することになったのだ。

ツバキハウスに関しては、自分が係る前の話はあまり詳しくはないが、70年代は元々ディスコサウンドがメインだったようだ。ディスコサウンドと言っても歌舞伎町のディスコでプレイされているようなものではなく、当時はニューヨークサウンドと呼ばれゲイ・デイスコで主にプレイされていたサウンドの類で、現在の日本の若手DJにも脈々と受け継がれているクラッシックディスコのことだ(もちろん当時はリアルタイム)。The Saintやラリー・レヴァンのParadise Garageなどでプレイされていた楽曲といえばわかりやすいだろうか?これらは自分が見習いの頃、徹底的に叩き込まれた楽曲群でもある。New Wave DJの自分がここら辺も詳しいのはそのせいだ。

その当時のDJは前述のマーチン・コレフ氏と故チアキさんが中心で、チアキさんは後にニューヨークでディスコ・レストラン「フジヤマ・ママ」をオープンさせた伝説のDJだ。このフジヤマ・ママでは透さんやDJ NORIさん中村直などニューヨークに渡ったDJがプレイしてた箱でもある。自分にとっては透さんのさらに師匠だから大師匠という所になるのだろうか?自分もニューヨークに行った際にはチアキさんの家におじゃまさせてもらったり、泊まる所を世話してもらったり、会員制のThe Sainに入れるようにしていただいたり、いろいろお世話になった思い出もある。

そして80年代に入ってからのツバキハウスは自分と同世代がイメージする通り、テクノ、Punk、ニューロマ、ファンカラティーノ、スカ、ダブ、レゲエなど、New Wave色の強い感じになってきてロンドンナイトが開催されるようになってからはさらに加速したような気がする。とは言えニューヨークサウンドも無くなったわけではなく、その辺はNYから帰ってきた透さんがしっかり引き継いでプレイしてた記憶がある。

今思うとこういう変遷は増田さんの意向が大きく係っていたように思う。
増田さんはまた、ライブアーチストの招聘にも積極的だった。いろいろ年代とかまでは忘れちゃったけど、ジョニー・サンダース、 ストレイ・キャッツ、キャバレー・ヴォルテール、ワイルド・スタイルのBusy BeeやグランドミキサーDSTなんかもやってた覚えがある。国内勢のライブではYMOやPLASTICS、THE MODS、東京ブラボーとか。中でも印象的だったのはラウンジ・リザーズのライブでキース・ヘイリングが一緒に来てライブペインティングした。(その数日後聞いた話によると、次の日オープン前に箱入りした北村たちが、イベントでのただの落書きだと思い、全部処分してしまったらしい。残っていれば、いかほどの価値だったのか?) あと、レゲエのASWAD。今だからこそ書けるが、ライブ前の控室からのモクモクが大変だった。当時のレゲエには割とつきものだったアレが馨しい匂いを出してフロアに充満してしまった。ツバキは決して狭い箱ではなかった。今で言うと渋谷Contactのメインフロアとバーのフロアの壁をぶち抜いてひとつの空間にしたくらいのキャパだ(もっと広いかな?)それが入ったとたんにそれとわかる匂いで。みんなであわてて開かない窓を無理やりこじ開けて、うちはでパタパタして匂いを逃がした。もちろん無駄な抵抗であった(笑) あとイベントも多かった。ニューロマナイト、サイケデリックナイトとか?
それと服飾関係のお客さん、常連、専門学生なども多かったから、ファッションコンテストとかもやった。優勝は当時としては破格なロンドン旅行。優勝したのはDJに成る前のヒロシ(藤原)だった。なにかとイベントは多かったが、DJ陣は出番が無くなるので、あまりウエルカムではなかったけど(笑

あと、増田さんはDJでもないのによく12インチを買ってきて、オープン前に「これ買ってきたんだけどさ、ちょっとかけてよ」といって、ふたりでDJブースにこもって試聴してたこともよくあった。予想通りカッコイイ曲だとあの強面(コワオモテ)の顔を緩め、ニヤッとして「いいねー」と。俺はその瞬間が好きだった。買ってくるものはNew Wave系が多かったと記憶してる。そのひとつにAfrika Bambaataa & Soulsonic ForceのPlanet Rockがあった。「なんですかこれ!? クラフトワーク?」と音を聴いて驚愕してた俺に「よくわかんないんだけど黒人がやってるらしいよ」とレコード屋が説明してたことを話してくれた。直感的にNew Waveじゃない何かが起こってることを感じた。そしてこの後、ダンスミュージックにまた新たな波が来る予感がしてならなかった。

そんな感じでTsubaki HouseでのDJ生活を始めてた矢先、ディスコ業界を震撼させる事件が起こる。「新宿歌舞伎町ディスコ殺人事件」だ。ディスコ殺人事件?
マスコミが作った酷いタイトルだ。これはディスコ内で起こった事件ではなく
ディスコで遊んでた中学生の女の子が二人、帰り道に車に乗った男にナンパされ千葉に連れて行かれて殺害された事件だ。いづれにして酷い事件で、犯人がわからず、いまだに未解決の事件でもある。

これによりディスコ自体が当局に目の敵にされるようになる。
当時も風営法で12時過ぎての営業はだめだったのだが、なんとなくどこも朝までやっていた。ところがこの事件以降12時すぎてもやってるところは厳しく取り締まられるようになった。ほとんどすべてのディスコが12時で閉店するという異常な事態になっていた。

ツバキハウスに移籍したばかりの自分にとっても大問題だった。ただでもDJの人数が足りてるのに12時に終わるのであれば、そんなにDJの数はいらないはずである。
当然、後から移籍した自分が出ていくのが順当である。それでも2、3か月は増田さんはなにも言わなかった。本社からDJ人件費を削るように言われないのだろうか?
自分も自ら出ていくことを切り出した方が良いのではないか?自分としては若いながらもバカな頭で考えていた。

そんなある日、増田さんがなんとも言えない複雑な顔つきで俺を呼んだ。
もうわかっていた。自分から切り出した。増田さんは、また朝までできるようになったら呼ぶから。とすまなそうな顔で言った。
思わぬ事件のとばっちりで、そうなってしまった。

そんな折、前述のウメちゃんに誘われてた例のクラブに入ったDJが、曲を知らなくて困ってるという話を関係者から聞いた。そのDJとは自分も知ってるやつで友人だった。元々DJではなく、Punkバンドのボーカルやってた男で、幅広く選曲してプレイするのは無理だった。その為、メインを張れるDJをまだ探していたのだった。

しかし、そこに入れば完全アウェーな感じでプレイしなきゃならないという躊躇があった。

しかし、そのウメちゃんと組んでいるグループがパシャクラブの一派だということが少ししてわかった。パシャクラブとは旧Tsubaki BallのスターDJ、ユイさんを引き抜いた元防衛庁の近くにあったクラブだった。
ということはユイさんも係るに違いないと思った。そして、そのクラブに確認しに行ってみた。ウメちゃんがフロントにいて、「おう、ちょうど良かった、これからユイちゃん来るからさ」とか言って、俺がTsubakiを辞めた情報をすでに知ってるかのように、
「当然ここに来るでしょ」的な口調で言った。やはりユイさんがかかわってる。

ほどなくしてユイさんが来て「DJいなくて困ってるんだよ」と言った。
そしてこれからまだあと2つクラブをオープンさせるんで、大変なんだよ。といっていた。
どうもその3つのクラブのDJの統括プロデュースをやることになったらしい。

そんな流れでユイさんがいるなら多少アウェー感も薄まるから、ひとまずやってみようと決心したのだった。

そのクラブの名前は通称「クレオ」飯倉片町交差点付近に在し、いい意味でも悪い意味でも悪名高き、CLEO PALAZZI PHARAOHの事だ。ここから当面この箱のレジデンツDJとしてプレイすることとなる。

余談だが、その後できる2つのクラブが、ユイさんを擁するTOKIO。そのさらに後にできるのがDJ WADAさん擁するNeo Japanesque。そういう流れだった。この3つのクラブが、改装後のTsubaki Ballへの包囲網を敷いてるような錯覚もあった。そんな事を少し感じていた。思い過ごしだったかもしれないが、現実的にお客や常連が被っていたからだ。

いずれにしても、このCLEO PALAZZI PHARAOH。小箱なんだが、自分がレジデンツになってからもの凄い勢いで加速し、店に入り切れないほどの行列をつくる様になる。
それはまた更なるカオスに巻きこまれていく序章にすぎなかった。

つづく







10.26.2017

記憶メモ(自分史DJ編) - 第1話 year1981 - DJ志願からの1年間 (私の名前はミックではありません)

1980年までバンド組んでVo,Guiterをやってた。だがやっていくうちにメンバー間で方向性にズレがでてきた。音楽をやる以前に人間関係、様々な意見の違い、それを調整をしなくてはならず、だんだんに疲弊してしまった。いい関係を保ちながら続けられるバンドはほんのひとにぎり。自分のバンドはそこには当てはまらなかった。

そんな時、テレビの情報番組で新宿三光町のオシャレディスコの映像が流れた。過激なファションに身を包んだ人々がフロアを賑わし、DJがプレイしてる曲はTalking Heads の Born Under Punches。

このころの時代はPunkが沈静化しNew Waveへ移行してる時期。ジョニー・ロットンはジョン・ライドンになりPILを結成、The ClashはSandinista!をリリース、誰もが誰にも似てない音楽を目指していた。自分としてはそんな刺激的な音にハマってた時期で、Talking Headsがかかるディスコの映像を食い入るように見た。

当時はディスコと言えば、ソウル、R&Bやディスコサウンドがほとんどで、まだそこら辺の音にあまり興味もなく、ディスコ自体にも興味は無かったんだが、こういう音をプレイしてるディスコとなれば話は別だった。とにかく現場を生で見たくなりそのディスコに行くことに。テレビで写ったのは新宿のツバキハウスだったが、新しくできたばかりの姉妹店ツバキボールも気になり両方行こう、どっちに先に行こうか?迷ったあげく、まずは新しい方へ足を運んだ。

緊張しつつツバキボールに入った瞬間、そこには今までに見たことのない別世界の宴が繰り広げられていた。映画に出てきそうな外国人、個性的なファッションでキメる人たち、プライドの高そうなゲイの人たち、有名ミュージシャンや有名デザイナーなんかもいて、それまでは極たまに普通のディスコには行ったこともあったけど、ほとんどライブハウスしか出入りしてなかった自分にとってはカオスな人々を目撃し未知なる世界が広がっていた。

そんな中でその空間を司る「DJ」という存在に目が釘づけになった。そのDJはRock、New Wave、
エレクトロディスコ、Dub、レゲエを巧みに操り、ブース内で踊りまくるわ、クルクル回転するわ、そうかと思うとブースの後ろにあるシンセドラムをたたきまくっていた。それもSparksのTryouts for the Human RaceやTamiko Jones のCan't Live Without Your Loveプレイ中にだ。
DJブースの近くにいた常連さんぽい人に「あの人は?」ときくと「ユイちゃん。最高でしょ!?」なんてニコニコしながら言う。なんでも某人気グループのバックバンドでドラムをたたいていた人だということだった。(後に自分の恩人でもあり、多大な影響を受けた先輩となるんだが・・)

そうか、DJならひとりで音楽できるワケだ。自分の求めていたことを遂に見つけた瞬間だった。
もうここしかないと思った。その数日後、今思うとよくもヌケヌケと行けたと思うんだが、
なんの伝手もないのにツバキボールの営業前にDJやらせて欲しいという自家談判をしに乗り込んだ。受付けにキャッシャーの女の子がいて「DJやりたいんですが誰と話したら・・・」と聞くとキョトンとした顔で、「はあ・・・よくわかんないけどマネージャー呼んでくるね」と言われた。
(ちなみにその子の名はエイコ。後に故桑名正博氏の奥さんとなる。アンさんと別れた後のね。
さらに余談として、エイコと一緒に受付のバイトやってたのは、後に国民的ヒット曲「愛は勝つ」でブレイクしたKANちゃんだ)

ほどなくしてマネージャーを連れてきてくれて、「この人です」というとそのマネージャーは、
「君、DJやりたいの?でも募集とかはやってないんだよ。今人数足りてるし。でも空きが出るかもしれないから、それまでここでバイトしたらどう?その時がきたら俺が店長にかけあってあげるよ」と言われた。
なんだよ。店長じゃないとDJ採用の権限ないんじゃん。と思いつつも、最初に会ってしまったのがこの人だから仕方ない。信用して言われるまま次の週からカウンターに入ってグラスを洗いながら時を待った。

それは半年間に及ぶ期間だったが自分のDJ名がDJになる前から決まってしまったのも、その期間だった。DJにはそれぞれ本名の人もいれば、ニックネーム(芸名?)のDJもいることは知っていた。だから自分は将来、自分で決めたDJネームで呼ばれたいと思い、自分で決めた名前で自分のことを名乗っていた。

当時、日本は飛ぶ鳥を落とす勢いで国が繁栄していた。世界的なブランドとなったSONYやHONDAが勢いを増してたのもこのころで、そういう世界的な企業の名前にあやかって海外の人も覚えやすい名前にしたかった。そのころはまだバイクが好きでいろんなバイクに乗っていた。それで、DJ YAMAHA、DJ HONDA、DJ SUZUKIのどれかにしようと思い、その中からDJ SUZUKIを選んだ。
だからみんなも最初はSUZUKIと呼んでくれていた。

ところがある日、一緒にカウンターに入ってたコバという男が俺がグラスを洗う時に使ってたビニール製の白いエプロンに油性のマジックで「MIKI LOVE」と落書きしたのだった。「MIKI」とは当時一瞬だけつき合ってたミキという女の子の名前だ。俺は「ふざけるな!」といってあわてて雑巾で消したんだが、すべては消えず、MIKという文字だけが残ってしまった。
まあそれだけならいいかなと思ってそのままにし、そのエプロンを着てカウンターでグラス洗ったりお酒出したりしてたんだが、そのうち常連客や外国人からミック、ミク、ミッケなどと呼ばれるようになってしまっていた。

そうこうしてるうちに、ツバキボールのスターDJ、ユイさんが他のナイトクラブへ引き抜かれてしまい、3人いたDJがふたりになっていた。その二人とはイサムさんとマッチャン(松田高志氏)だ。
ユイさんが他に行ってしまうのはなんとも複雑な気持ちだった。できれば一緒にやりたかったしいろんなものを吸収したかったからだ。しかしそれはチャンスでもあった。そこで最初に出会ったマネージャーに相談してそろそろDJの話を店長に繋いでもらおうと思ったんだが、時を同じくしてそのマネージャーがずっと欠勤で、店に出て来なくなっていた。
どうしたんだろうと思って別のマネージャーに事情を聞いたら原宿にタコ焼き屋を開業したので辞めたとのことだった。どうなっちゃうんだ?俺は?と焦った。

じゃあ店長に直接と、、、今の感覚だと、そう思われるかもしれないが、相手は店長といっても佐藤さん(現エラ・インターナショナルの佐藤としひろ氏)だ。後にもトゥーリアやGLODをオープンさせるが、この当時でもすでに大スター。ツバキ両店の実質的プロデューサーで貫禄もあった。
最初の事情を知らなければ一介の若造のバイト君が直接話せる相手でもないし、話したところでNGの可能性は高かっただろう。

こうして途方に暮れながら半年すぎたころ、今度はイサムさんが本社にあがるという話で、いよいよDJ不足は目に見えていた。通常のディスコではこういう時にヘルプと呼ばれる臨時DJが他店から助っ人で来てやることが慣習となっていたが、ツバキ両店は、他のディスコとは、そもそもの選曲が全く違うのでそれは無理だった。そのためツバキハウスからサポートのDJが来て穴を埋める形だったんだが、そのツバキハウスもスターDJのマーチン(マーチンコレフ氏)がマネージメント及びDJ統括がメインになってて時おりプレイはするものの頭数には入れられず、さらにトキオさんや中村直も辞めていたので、実質的にニューヨーク帰りのトオルさん(高橋透氏)とノブちゃんしかいなかった。なんか大変だなとは思ったが、この状況は自分にとっては向かい風だった。

そこで意を決してツバキボールでバイトしてた理由を最初からイサムさんに話し相談に乗ってもらった。イサムさんはすぐに「わかった。俺が佐藤さんに話してやるよ」と言ってくれた。
そしていよいよ佐藤さんとの個人的な面会の機会を得る。熱意を伝えるためいろいろ熱い思いを用意して緊張の面談に向かったんだが、同席して頂いたイサムさんが「こいつDJやりたくてツバキボール入ったみたいなんだけど・・・」というと、あっけなく、「そう。じゃやってみれば」という返答を頂いた。なんだ?この懐の深さは?こんな簡単に話が通っていいのか?一瞬気が抜けた思いだったが、但し、使えなかったらクビということと、ずっとお客を踊らせなくていいから、ということを言われた。

ディスコでお客を踊らせなくていいとは?どういうこと?と思ったが、要は聴かせる時間を作れということだった。確かにツバキボールはフロアから客が一斉に引いてしまう時も多くあった。カッコイイんだけどこれ踊れないだろ?みたいな曲を挟んでくる。DJ外したな!と思ってたが、わざとやっていたことがこの時わかった。「聴かせるDJ」この感じは今だに自分のプレイにも大きく影響している。

そしていよいよDJ修業が始まる訳だが、同時期に修業してたのがビリー北村だ。この男、ケンカ早っさはDJ界一だった。DJ中に「ディスコかけてよ~」って言ってくる客に「そんなのかけるわけないだろ!」ってDJブースの窓越しに手を伸ばしてブッ飛ばしてた。その早さは恐らく若かりしの頃の後輩、タツオ(須永)やマサミ(牧野)以上だったかもしれない。まさに ビリー・ザ・キッド(笑)
この男と苦楽を共にした修業時代は過酷だったの一言に尽きる。17時入りの帰るのが朝6時。ずっと立ちっぱなし。先輩のプレイした曲を全曲ノートに記入。おまけに出された酒は全部飲まなきゃならない(笑)その後も付き合いやなんやらで睡眠時間は毎日4時間程度。今でも北村と会うとその時の話で、話は尽きない。「修行」つまり見習い期間は3か月だった。その期間は北村がツバキボールで自分はツバキハウスだった。しかしラッキーだったのは、そこで透さんのミックスを見ながらその技を盗むことができた。それからミックス命!というくらいミックスの練習をし、次第に上達し得意げになってた。

しかし個人的な問題としては自分のDJ名についてであった。(そこはこだわってたのかな?)
当時は毎日やってたからフライヤーなどない。ネットも当然まだない。DJ名なんて声かけて呼ぶ時だけだ。だが、そうであっても名前を売るには名前がないとだめだ。北村は後からビリーが頭についたが最初からキタムラだった。しかし俺は人によってSUZUKIとかMIK(ミック、ミッケ)とか両方呼ばれていた。佐藤さんも北村も透さんも大貫さんも最初は、「SUZUKI」と呼んでいた。だがお客からは引き続きMIK(ミック?)と呼ばれていて、それが次第に広がってしまっていた。

後に正式なDJになってしばらくしてから「お前いつからミックになったんだ?」と透さんに言われた。
しかし「はあ・・・」としか言いようがなかった。元彼女の名前が由来なんて、現彼女もいたし、口が裂けても言えなかった。それ故、36年以上我慢してて初めて明かすけど、実はこのDJ名は好きではないのだ。しかしどうすることもできず未だにそのままになってる。もっと早く手を打っておくべきだった。

せめてもの抵抗は1997年からUをつけてDJ MIKUにしたことだ。「ミック」と呼ばれたくない抵抗。
でも結局80年代を引き継いだのか?90年代までの人も「ミック」と今でも呼ぶ。だが2000年以降知り合った人からは「MIKU」と呼んでもらえる。この違いは?どっちも嫌だけど「ミック」は特になんか嫌だ。そう呼ばれるのは諦めるとしても、せめてSNSなどに文字で「ミックさん」とか書かないでもらいたい。そう願うばかりだ。

そういう事情で実質DJ MIKとなってしまったものの、見習いから3か月後には正式にツバキボールのDJとして採用されることとなった。だが、このころからDJの編成に異変が起こる。自分が正式採用されてツバキボールに移動してすぐさまマッチャンが体の不調で入院してしまったのだ。
つまり両店舗で4人しかDJが居ない状態。そのうちふたりは新人だ。

ツバキハウスの方はマーチンもいたし、曜日によってロンドンナイト(火曜日)では大貫さんやヘビメタナイト(日曜日)では伊藤 政則さんやBURRN!編集長の酒井 康さんがいたり、木曜日とかは高木完ちゃんやヒロシ(藤原)やワシダさんなんかも飛入りで回してたりしたからなんとかなってたけどTsubakiBallはマッチャンがいないとアウトな状態だった。

そこで透さんがツバキボールに移動になり自分と2人体制に。ツバキハウスはノブちゃんが残り北村と2人体制になった。ただこれはこれでかなりキツかった。2店舗で4人ということはひとりが休みの日は誰かが1日中ひとりでやらないといけないという事だ。まだ正式にDJになって2~3か月しかたってないのに、18時オープンから朝5時までひとりという日が週に1回あった。

今のクラブでは5Hours Setとか、それだけでコンテンツになりそうなものだが、新人にしてその倍以上の11Hours Setだ。今考えるとめちゃくちゃなんだが、これで相当きたえられたのは事実。何度も選曲でフロアを散らしてしまったり、ミックスで失敗したりで。さらにユイさんと比べられてしまうところもあったりで、新人にはきつい状況ではあった。

しかしDJブースに入ったら新人もへったくれもない。みんな入場料払って楽しみに来てる訳で。
特に常連さんは厳しかった。だが暖かくもあった。見守ってもらえた所もあったと思う。
自分はなんと幸運だったのかと思う。この時の状況があったから自信もついたし、ものすごい経験を積ませてもらったと思ってる。今では大感謝でしかない。すべて1981年のできごとだ。

そして年が変わりTsubakiBallは改装の準備段階に入る。だが、ここでまた異変が。NY視察から帰国した佐藤さんよりTsubakiBallはディスコサウンド専門のクラブにするというお達しが出た。当時の自分の選曲はNew Wave系が70%~80%。つまり、改装後はここにいられないことを意味していた。

この2年後に中村直と初めてNYのThe Saint に行くまではディスコサウンドの良さをわからなかった。Saint でヤラれてからはそこに今のテクノスタイルの原点があるわけだが、この時はまだパンクやロック的な要素の強い曲に傾倒してた。仮にこの時わかってたとしても、この時点でディスコサウンドのDJに転身することはあり得なかった。なぜなら常連のNew Wave好きの人たちがたくさんいたからだ。そんなこともあり、改装に入る前までは月曜日だけはNew Waveをプレイすることを許された。
そのため常連客やNew Wave好きな層のお客さんは月曜日に集中し、土曜日と同じくらいの集客数になっていた。だけどそれでも方針は変わることなく、改装後のツバキボールのDJ陣のリストには自分の名前は無かった。

つづく